人間にとってなぜ研鑽が必要か

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本質的なものに重点をおく 6

生まれ育った、周囲・環境・気風などによって、知らず知らずの内に培われ身に着いた価値観。
生まれた時にはなかっただろうが、現状を観察してみると、確かに身に着いてある価値観。

大人になって、ずーっとあとになってから、理論的に「何に重点をおくべきか」を理解し、強く思ったとしても、身に着いた価値観は、すぐに変わらない。
個人の意志や意識では、価値観や着眼点の転換は容易ではない。


本質的なものに重点をおいている人の存在、そういう人たちによって醸し出される気風。
そういう人は、どこを観ているか なにを聴いているか

それを真似て、ここを見よう これを聞こう として出来るものではない。

じゃあ、どうすれば、できるのか・・・と、一足飛びに進もうとしないで、
まず、自分は、どこを見ているのか、何を聞いているのか、自分が重点をおいていること、眼をつけているところを知る・・・自覚
それをしないで、見よう見よう、聞こう聞こう、重点をおこう、としても絶対できないと思う。

怒りや争いなく、意欲をもって楽しく働く人を良いなあ、と見る観方・価値観。でも、こういうロボットを作るのは、そんなに難事ではないと思う。
人を観ていると云えるか、どうか・・・。
赤ん坊をかたどった人形にもカワイイと思う感情・・・、何が違うか。


自分にとっての関心・重点・価値観・着眼点を先ず知ることから、
そして、本質的なものに重点をおくとはどういうことか、知識理解ではなく、
そういう人に触れて感得する、空気を吸うように。

自分のことでさえ、思いとか気持ちとか感情とか考えとか・・・表面的なものを中身だと思っていること多々あると思う。それでは、とても人の中身へなんて行けないと思う。

日常の言動は、人と人とのやりとりの中で生じる相対的現象。
やってること、言ってること、現象を捉えて、評価したり批判したりできない。もちろん、その人を知ることはできない。
社会の一員、組織の一員、職場の一員、役割の人、あれをやってる人、こういう人・・・人間は服を着てものを言うロボットではない。
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本質的なものに重点をおく 5

今はわれ、ひとと共にと思っていても豹変しそうな人 という一節がある。

思っている、強く願っている、そういう意識でいる、ということと・・・、それで「どういう人か」ということ。
思っている人、願っている人、そういう意識でいる人、こういう事をやっている人、と見てしまいがちだが・・・、それで「どういう人か」ということ。

豹変とは獣性むき出しというのではなく、態度がガラリと変わること。
にこやか→陰湿・陰険、なごやか→批判・批難、おおらか→正義感・不信感


意識 と 実際
どんなに立派な思想を具え、ハッキリした主義・主張で行動していても、それはそれ。
意識段階のもの。それで、その人の実際はどうか。
犯罪者、不良、乞食、政治家、慈善活動家・・・、それぞれ考え行為の違い。それで、その人の実際はどうか。

子や孫に人間として何を希っているのかな? 立派な意識で立派な行動する人かな?
どんな社会を希っているのかな? 造って贈りたいのかな?
一体で無所有で仲良くやろうとしてやっていていも、それはそれ。
その人の実際が、一体か、無所有か、仲良いか、という観点。
研鑽会へ行くのも意識、みんなでやろうとするのも意識、
それで「どういう人」になろうとしているのかな?

言っていることよりも、行いが重要で、行いよりも、その人の中身が重要。
豹変しそうな人ではないか、どうか、常に顧み省み、自分も人も本もの本当のものを目指す態度。
すると・・・、人間らしい人間のあり様が、自分の中に出来てくる。
安定・安心の人の像が浮かび上がってくる。
自分は、またあの人は、この人は、どれくらい安定・安心の人かな・・・?
そういう人に成り合おうとする社会気風。
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内観コースに一青年を受け入れて Ⅳ

 何らかの観念によって、人間本来の<自分に目を向ける能力>の発露や発揮が邪魔されているとすると、それはどのような観念によってなのだろうか。

 そのような観念にはいろいろあって一概には言えないようにも思う。たとえば、相手に対立感情を抱いて、相手を責めているようなときには、なかなか自分には目を向けられないように思う。こういう場合、感情が強く出ているとも言えるが、その感情よりもその感情が発生してきたであろう元の観念によって<自分に目を向ける能力>の発揮も阻害されているのではないかと思う。とにかく<自分に目を向ける能力>発揮を阻害する要因となる観念は人によってさまざまで、個々にそれを突き止めて解消していく必要があるように思う。

 一人の人間を見ると、乳幼児から成長するにしたがって、なんらかの影響を外から受けて、その子の中にいろいろな観念が形成されていくのだろう。とすると成長するにしたがって、その子の中の観念の量(数)は増えていくことになる。言葉もどんどん覚えていく。そうすると、その子の意識内容はより豊かになるともいえるが、より複雑になるともいえるのではないか。

 少し乱暴な捉え方かもしれないが、人間の意識内容というものは、そこにある観念の量と質によって決まってくるように思う。たとえば固定した観念が多ければ多いほど頭の頑固さが増すというようなことになると思う。この固定した観念(頑固さ)というものが、ある場合には、例えば対立感情を生み出しもし、<自分に目を向ける能力>の発揮をも邪魔するのではないか。

 だから、成長するにしたがって観念の量(数)も増える中で固定した観念の量(数)も増えるとしたら、成長するにしたがって<自分に目を向ける能力>の発揮がますます押さえられていくということになりかねない。それが今の人間の現状とも言えないか。

 とすると、これからの人間にとっては、できるだけ早い(若い)時期に、言ってみれば<自分に目を向ける能力>の発揮がまだ押さえられていない若い時期に、内観を体験できるようにして、成長して、いろいろな観念がついても<自分に目を向ける能力>を大いに発揮できるように仕向けて行かなければならない。

 今回の内観コースで、青年との面接中にフト思いついたことを表現したくて書きはじめたが、随分回りくどくなってしまったようだ。(終わり)
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内観コースに一青年を受け入れて Ⅲ

 三つのテーマや嘘と盗みのテーマで調べた内容を語るこの青年の話は聞いていてとても分かりやすかった。自分に目を向けて、自分の気持や思いや考えや行為をそのまま語っているという印象を受けた。捉え方に複雑なところがないのだろう。話が何かスッキリしていて単純明快だ。それも飽くまでこちらの受ける印象なのだが・・・。

 3月に受け入れた19歳の女性の話も分かりやすかった。ある小学生(7歳)の女の子が内観した内容を面接で報告するのを録音したテープもあるが、それは誰が聞いても分かりやすいものだ。

 自分に目を向ける能力というのは、もともと人間に具わっているのだろうか。乳幼児においては、その能力はまだ発露していないわけだが、小学生ぐらいになると、もう自分に目を向けることができるようだ。今の単なる思いつきだが、この<自分に目を向ける能力>というのに年齢差はなく、何らかの条件が整えば、10歳でも20歳でも50歳でも同じように発揮できるのではないか。内観に関わる自分のわずかな経験からの憶測に過ぎないかもしれないが。

 自分に目を向けることができる能力は年齢に関係なく誰にでも具わっているとしよう。とすると、その能力の発露と発揮を邪魔するものは何か。いろいろな要因が考えられると思うが、その能力の発露や発揮が人の頭の中でのことだとすると、それを邪魔するものも、煎じ詰めると頭の中のもの、すなわち何らかの観念であると言ってもよいのではないか。(続く)
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