内観コースに一青年を受け入れて Ⅳ

 何らかの観念によって、人間本来の<自分に目を向ける能力>の発露や発揮が邪魔されているとすると、それはどのような観念によってなのだろうか。

 そのような観念にはいろいろあって一概には言えないようにも思う。たとえば、相手に対立感情を抱いて、相手を責めているようなときには、なかなか自分には目を向けられないように思う。こういう場合、感情が強く出ているとも言えるが、その感情よりもその感情が発生してきたであろう元の観念によって<自分に目を向ける能力>の発揮も阻害されているのではないかと思う。とにかく<自分に目を向ける能力>発揮を阻害する要因となる観念は人によってさまざまで、個々にそれを突き止めて解消していく必要があるように思う。

 一人の人間を見ると、乳幼児から成長するにしたがって、なんらかの影響を外から受けて、その子の中にいろいろな観念が形成されていくのだろう。とすると成長するにしたがって、その子の中の観念の量(数)は増えていくことになる。言葉もどんどん覚えていく。そうすると、その子の意識内容はより豊かになるともいえるが、より複雑になるともいえるのではないか。

 少し乱暴な捉え方かもしれないが、人間の意識内容というものは、そこにある観念の量と質によって決まってくるように思う。たとえば固定した観念が多ければ多いほど頭の頑固さが増すというようなことになると思う。この固定した観念(頑固さ)というものが、ある場合には、例えば対立感情を生み出しもし、<自分に目を向ける能力>の発揮をも邪魔するのではないか。

 だから、成長するにしたがって観念の量(数)も増える中で固定した観念の量(数)も増えるとしたら、成長するにしたがって<自分に目を向ける能力>の発揮がますます押さえられていくということになりかねない。それが今の人間の現状とも言えないか。

 とすると、これからの人間にとっては、できるだけ早い(若い)時期に、言ってみれば<自分に目を向ける能力>の発揮がまだ押さえられていない若い時期に、内観を体験できるようにして、成長して、いろいろな観念がついても<自分に目を向ける能力>を大いに発揮できるように仕向けて行かなければならない。

 今回の内観コースで、青年との面接中にフト思いついたことを表現したくて書きはじめたが、随分回りくどくなってしまったようだ。(終わり)
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