(研究所サロン 2.23) 発表内容の骨子

人 間 観 | - | -

第二回 研究所サロン-メモ Ⅲ

 「人にやらせたり、やめさせたり、は出来ない」というテーマがあった。これは第一回のときから自分の頭の中に残っているテーマで、何か真を突いている感じはする。でも「人に言ったのにやってくれない」とか「自分が言ったからやってくれた」みたいな思い方がとっさに自分の中に出てくるところを見ると、自分のベースがやっぱ「人にやらせることが出来る」みたいになっているのではないかと思う。

 第一回のとき以降自分の考えはそれほど進展しているようには思えないし、今回も自分がその理を本当に理解するというところまでは行っていないなと思う。ただ、その理に対する自分の理解はまだあいまいだ、それが理であるならば、その理をもっと理解したいという意欲が湧いてきているのを感じる。

 今までそれが本当(理)らしいと思うと、自分でよく調べないで理解のあいまいなまま、それを考え方(知識)として自分の中に入れていくみたいな感じもあったが、今回はそのテーマを自分のテーマとしてもっと調べてみたい、もっと理解したいとなっているのを感じる。 研究所サロンというからには、 研究する意欲が養われる場ということなのだろう。

 人は何で動くのか?人は人に動かされるのか?人は自分で動くのか?意志で動くのか?観念で動くのか?意志はどう形成されるのか?観念はどう形成されるか?加えて人とロボット(機械)の異い、この辺の解明と理の理解を自分の中でもっと進めていきたいものだ。
社会観の元となる人間観 | - | -

第二回 研究所サロン-メモ Ⅱ

 社会とか人間について調べようとするとき、社会の問題(各種事件・対立・差別・戦争等等)を解決したいとか、自分(人間)のかかえる問題(悩み・苦しみ・怒り等等)を解消したいという願い(思い)が強くはたらく場合、調べるということになりにくいのではないか。

 社会の問題、自分の問題と言う場合、社会そのもの、自分(人間)そのものよりも問題の方に関心が行っていて、社会そのもの(社会の実際)、人間そのもの(人間の実際)に目が向いていないと言ってもいいのではないか。だから社会や人間の実際を調べることができない。

 社会の問題、自分(人間)の問題と言う場合、その人の中にすでに社会に対する固定した見方(固定した社会観)、自分(人間)に対する固定した見方(固定した自分観・人間観)があるのではないか。

 何かを問題にするところに、社会というものに対するその人の受け取り(社会観)や自分(人間)というものに対するその人の受け取り(自分観・人間観)が現れていると言ったら言い過ぎだろうか。

 先ず、自分の中の社会観・人間観を調べることをしないならば、社会の実際・人間の実際に迫ることはできない。

 自分(人間)そのものを見ようとしないで、問題化するから、自分や人を責めたり罰したりしようとする。社会そのものを見ようとしないで、問題化するから、対立・戦争に発展する。そして権利・義務・約束・規則・法律・条約等が横行するようになる。

 その問題が解決したらそれでよし、自分の悩みが解消したらそれでよし、楽になった、幸せになったなどと思い込むのは、自分にとっての目障りがなくなってよかったという程度の、実に狭量な見方と言うべきか・・・。
社会観の元となる人間観 | - | -

第二回 研究所サロン-メモ Ⅰ

 サーカスでライオンが何かの芸を覚える場合、いわゆる「飴と鞭」で調教される。調教師の指示通りに動けば、飴(褒美)をもらえる。調教師の指示通りに動けないと、鞭(罰)が飛んでくる。ライオンは否応なしに調教師の指示通りに動くようになり芸を覚える。

 芸を覚えたライオンは、自ら身体を動かして自分で芸をしているのだから、一見、自らの意志で芸をしているかのように見えるが、「飴と鞭」での調教の過程をみると、どうも、ライオンが自分の意志で芸をやっているとは言えなくなる。

 自らの自由意志(自由欲求)というより、そういう行動のパターンが調教によってライオンの中に形成されたというふうに見れるのではないか。

 生活のためにあくせく働く人間の姿は、このようなライオンの姿(行動)にダブって見えてくる。人間の場合、まわりの評価(よく思われる)や給料(褒美・報酬)等が飴ということになるのか。また、働かないと非難されるとか、給料もらえないということが、鞭(罰)ということになるのか。とにかく働くように調教されていると言ったら言い過ぎだろうか。

 考えてみれば、車運転する場合も、左側を走るとか信号が赤になったら止まるとか、交通法規に則って運転するというのも、そういうように教えられているということだ。この場合、交通法規に則って運転していても別にほめられもしないが、それに違反すると罰金を取られる。罰金をとられるから赤信号で止まるんだとは、あまりはっきりと思ってもいないかもしれないが、自分の場合は、やっぱ赤信号では止まらなければという思い(観念)の背後には、そうしなければ罰せられるという観念もありそうな気がする。車の運転もライオンが調教されて芸を覚えるのに何か似ているような感じもする。
 
 こういう場合も、自分で身体を動かして働いているとか、自分で車を操作しているといっても、自らの自由意志(自由欲求)で動いているとは言えないような気がする。言ってみれば、そういう行動パターンが教育(調教)によって形成されたというふうに見れるのではないか。いや、人間の場合、そのような行動に現れる前の頭の中(観念・思考パターン)が教育等によって形成されたと言ったほうがいいのかもしれない。そのように行動するように観念が形成されている、そのように行動するように観念づいていると言ってもいいかもしれない。だからそうするもんだみたいに思って、自分でもその気になり、自分の意志でやっているつもりでいるのだろう。

 ライオンの場合はその頭の中身(構造)はよく分からないからさて置き、人間(自分)の場合、自分の中に形成された何がしかの観念や思考パターンが、自分の行動(欲求・意志)の元になっているのであれば、そこをよくよく調べてみたいものだ。

 自分がそうしたいから、自分の意志でそうしていると思っていても、実は何かの観念で動かされているということもあり得る。でもその観念も自分の頭の中のものであれば、そこをよく見て調べることで、その観念を明るみに出していける。

 どんな感情とか欲求とか意志とかでも自分の中から湧いてきていることに間違いないが、妄想・幻覚等も自分の中から湧いてくるのであるから、その元をよく調べないで、自分の中から湧いてきたなどといって大事にはしておれない。どこから湧いてくるのやら・・・・。
社会観の元となる人間観 | - | -

自立した社会人⑤

今の社会の中で、自発的自由意志ではなく、周囲の状況や、規則・法律・ルール・きまり・教え・常識などに合わして動くことに慣れ親しんだ考え方が身に付いてしまっている人が多いのだろう。
そういう人は、自分も人も、自分の意思で動くのではなく、他のもので動くという人間観で見るようになってしまっている状態なのだろう。だから、、自分が動く場合でも、人に何かしてほしい場合でも、規則・法律・ルール・きまり・教え・常識等を持ち出して、それで動く・動かされるような感覚で暮らしているのだろう。

そういうことで社会も成り立っているんだという社会観も形成されてきているのだろうから、マナー・ルール・しきたり等が、あたかも、厳然と存在するかのような観え方になってしまうのだろう。
それで社会が成り立っているのだから、それを守っているかどうかが、一番の関心事になっていってしまう。
そうすると、規則やルールが人と人との関係の中に深く入り込み、人そのもの・その人の心が見えなくなってしまうのだろう。

例)花壇に花の種を植えたので、子どもに花壇に入らないでほしいという願いがあるという場合でも、他のもので人が動くという人間観・社会観の人は、「入ってはいけません」「立ち入り禁止」等というルールやきまりを作って、それを子どもに守らそうとする発想になるのだろう。
(それに加えて、守らないと罰を与えるという発想も加わり、更にルールを守ることを強いていき、罰を受けたくないから、ルールを守るという、ますます自発的自由意志から離れていってしまう)

自立した社会人たらんとする人は、自らが自発的自由意志で動こうとする人になっていこうとする。そうなると、他の人に対しても、その人はその人の意思で動くのだと見るようになってくるのだろう。
そうなると、人に何かをしてほしい場合でも、意思と意思の交流をベースにして、その人の意思になってこそ、そのことが成っていく、という発想になっていくのだろう。
上記例の場合でも、子どもに対して、「種を植えたから、花壇には入らないでほしいんだ」という自分の意思を伝えて、その子の意思に働きかけていくのだろう。
そういう観方に立った人は、仮に、子どもが花壇に入った姿を見かけても、即座に、「こら!」とか、「入っちゃダメでしょ!」と行動だけを見て、やめさせたり、叱ろうとする発想にはならないのだろう。自分の意思が伝わっているのか?その子はどういう気持・意思で花壇に入るという行動をとっているのだろうか?と、行為の前の心の方に関心が向くようになるのだろう。

人と人とが暮らしていく上では、仕組みや、こうしようとかいう合意事項はあるのだろう。
が、それをその人の意思でやっていこうという自立した人で運営していく社会と、それがあるからそれを守らねばならぬと、自他を縛って、その仕組みを維持することに重点を置く人の造る社会では、まるで異なった社会が現れてくることになるだろう。
自立した社会人 | - | -