2007.12.25 Tue
どんなに悪いことをした人でも、どんなにひどいことをした人でも、攻撃したり叩いたりできないのが女(性)。
人を叩いたり攻撃したり憎んだり恨んだりは、女性を失った女。
やさしさを失った時、女は女でなくなる。
やさしさは女性、やさしさの塊が女性。やさしさを失ったら女じゃない。
格闘技その他のスポーツ、芸術、学問、仕事、政治・・・何やっても、闘争心・攻撃心あると、女が女でなくなる。・・・形だけの女になる。
女が女でなくなることは、人間が人間でなくなることに等しい。
人類には雌と同様に女(性)が重要な気がする。
身近に女(性)があることがとても幸せです。
鬼の褌を洗う女
むかし、むかし、ある女が鬼にさらわれた。
何年も探して、やっと見つけ出した。
女は川で鬼のフンドシを洗っていた。
逃げようとも帰ろうともしなかった。 |
・・・という昔話です。さて、どう読みましたか?
興味ある人は、インターネット等で調べてみては・・・。
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2007.12.14 Fri
どれほどの実行力があるか 実行力がある分 実現できていく。
ここには、実行力のある人が、たくさんいる。
それによって、実態が進んでいると思う。
「繋がりが大事だ」「ひとと共に」「物や金じゃない」「本当の幸福」等 どんなに力説していても、
その人の生活行動にその人の優先順位や行動方向が現れてしまうから、これは隠せないし、言い訳もできない。
「実行力」と「実行」は同じではないと思う。
「実行」ではなく「実行力」があるか、どうか。
繋がりを知ると、 自分を守らなくてよくなる
ひとと共にを念えば、 人目を気にして怖れ怯むことがなくなる
自分の成り立ちを知ると、 不平・不満・不足感がなくなる
物や金じゃないとなれば、 結果や評価に動じなくなる
誰のものでもないと知れば、 減ったり無くなったりの不安・心配がなくなる
事実・実際に関心が向くと、 固定・停滞・キメツケが続々発見される
本当の幸福を指向すると、 一時的な満足感や解放感を追わなくなる
まだ、まだ、あげれば、切りがないが、これらの一つ一つが、実は、おそろしい程の実行力になることは、おおかたの人は察しがつくと思う。
(我のない人の存在は、我のある人にとって最も恐るべきもの)
こういうものをなおざりにして実行しようとしても無理と思う。
実行力とは、やる気や気負いや勢いではない。
何か、やろうと考えても実行力が伴わないとできない。
サイエンズによって、自分が観えてくる。
サイエンズによって、余分な観念が外れてくる。
サイエンズによって、その人の内から、どんどん実行力が出てくる。
サイエンズによって、どんどん実態が進んでいく。
アズワンコミュニティは、実行力の結晶。
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2007.12.06 Thu
音楽を聴く場合も、言葉を聴くのと同様だ。音楽が流れている、そう表現することがよくある。それはその空間に何らかの空気の振動(波動)があるということだ。その空気の波動を音楽と呼んでもいいが、その空気の波動を受け取って、それを雑音としてではなく音楽として聴くのは自分の聴覚器官(耳~脳)だ。そういう意味で音楽も自分の頭の中に流れていると言える。
作曲する場合でも、まずは作曲者の頭の中になんらかの曲想が生まれるのだろう。その曲想は今までその人が聴いた数々の楽曲の総体がベースになって、そこから生まれてきたと思えば、やはりその人の聴覚器官(耳~脳)が関与してのものだと言える。
いずれにせよ音楽は人の頭(耳~脳)の中にあるというべきで、音符等の記号に変換されて譜面に表現されたものや、歌われたり楽器で演奏されて空気の振動に変換されたものは、やはりその曲(音楽)そのものとは言えない。
一応、空気の波動と人の頭の中に浮かぶ音の流れとの間には一定の対応関係が考えられるから、それをベースにして作曲が行われ、また演奏されたり鑑賞されたりもできるのだろうが、演奏者が譜面を見ながらある曲をある楽器で演奏する場合、その楽器が発する空気の波動は一つでも、その演奏者とそれを聴く鑑賞者のそれぞれの頭の中を流れる曲(音楽)は全く別ものだ。演奏者と鑑賞者と、それぞれ別の耳(聴覚)と頭の持ち主なのだから、それは当たり前のことだ。鑑賞者は演奏者が演奏する曲を聴いているつもりでいるが、実は自分の頭の中を流れる曲を聴いているということになる。
2007.12.04 Tue
大雑把な捉え方かもしれないが、言葉というものは必ず音声と意味とがセットになっていると言ってよいのではないか。自分の頭の中にある言葉を思い浮かべるときには、意識するしないにかかわらず音声と意味とが伴っている。
音声も意味も頭の中のこと。(言葉の)音声は何らかの刺激を受けて聴覚器官(耳~脳)が作り出すもの。(言葉の)意味については、作られるというより意味が付与されると言ったほうがいいかもしれない。意味はその人の経験や知識によって付与されるというだけでは説明としては不十分であると思うが、ここでの要点は言葉の意味は言葉を使う、他でもないその人自身によって付与されるということだ。つまりその人の頭の中にあるということだ。
他の人が口から発した空気の波動を自分の耳で受けて、それを頭の中で言葉に変換する場合、まず音声に変換して、それに意味を付与するということだ。その時に言葉を自分の頭の中で作っていると言える。
こう考えてくると、人の話(言葉)を聞くという場合のポイントが二つあるように思う。一つは外界に注意を向けて他の人が発した空気の波動を耳でそのまま受けようとすること。外からのものに耳を傾けると言ってよいと思う。もう一つは自分の内(頭の中)に注意を向けて、そこ(頭の中)に次々と浮かんでくる言葉(音声+意味)に耳を傾けるということ。
人の話(言葉)を聞く場合にも、いつも自分の内に耳を傾けている、目を向けている。そんな聞き方があるのではないか。それが<あくまでも自分の受け取りであることを自覚しての聞き方>ということではないか。
2007.12.03 Mon
相手の口から発せられた言葉が、そのまま自分の耳に届いて、その言葉を聞いているつもりでいる。また、自分の口から発した言葉は、そのまま相手の耳に届いて相手に伝わると思っている。ただ、同じ言葉でも、それに付与する意味が自分と相手とは微妙に異うぐらいに思っている。でも事の真相(?)はそんなものではなさそうだ。
物理(学)的には、相手の言葉がそのまま空気中を飛んでくるわけではなく、相手が口から発した空気の振動(波動)が伝播してくるということのようで、それがどういうわけか耳に届いて自分の頭の中に入ると音(言葉)に変換されるということのようだ。ということは、言葉も相手の言葉を聞いているつもりで、実は自分の頭の中に自分で作っていることになる。
自分が言葉を発する場合も、頭の中では言葉であったはずのものが、どういうわけか口から外に出るときには空気の振動(波動)に変換されている。でもそのことは意識されない。自分で発した空気の振動をまた自分の耳で聞いて頭の中で音(言葉)に変換しているから、自分の頭の中の言葉がそのまま口から外に出て行って、相手の耳にまで届くのだと錯覚する。実は相手がその人の頭の中で、こちらから発した空気の振動をどう変換してどんな言葉にして思い浮かべているのかは、原理的に分かりようがないことなのだ。
以上、少し乱暴な論理のようだが、相手の頭の中の言葉と自分の頭の中の言葉は全く別ものだ。わざわざこんなややこしい論理を出さなくても、相手の頭と自分の頭が全く別だということは一目瞭然、だからその中に詰まっている言葉も全く別ものだというのも当然のこと。ただ、ここでは、相手の頭の中の言葉がそのまま自分の頭の中に入って来るわけではないということを言いたかったようだ。