本当に解放された姿を知ること

職場解放区とは何かを考えてみる。
「解放」というと、それぞれのイメージが出てく来る。
今窮屈だ、不自由だと感じるものがあると、そこからの解放を思うだろう。
また、従来の窮屈感や不自由感からの解放を思う場合もあるだろう。
もちろん、それも「解放」の一コマではあるだろうが、そこから解放されて解放感を味わえても、それが本当の解放された状態になっているかどうかは分からない。

歴史的に見ても、横暴な王権などから解放されて、財産等を守る権利を勝ち得ることで私有財産制なども生まれたのかもしれないが、そこから新たなる囲いが生じ、それが今の様々な問題を惹き起こす根元になっているという例もあるだろう。

なかなか休みが取れなかった職場で、人が入りあって休みが取れるようになったということがあったとしても、それは若干の縛りが取れて、少しは解放に向かったのかもしれないが、それで良かったでは、縛りのベースの中での一部が改良されたということに過ぎない。職場解放区の実現には程遠い。

何かに縛られた窮屈感からの反動で、そこからの解放を求める場合は、対立的になったり、反発的になったりする場合もあるのだろう。

本当に解放された姿(真実の姿)を知ろうとしないで、部分的な解放された姿を追っても、それはそれだけのこと。
自分なりの解放感を求めての解放区実現の試みでは、新たなる対立を生み出したり、一時的な部分的な解放の動きに止まるだけだろう。

やはり、本当に解放された姿(真実の姿)を知ることが根本で、そこを見極め、そこに至る具現方式を考案しつつ、実際に即して検討を重ね、そうなるように、そうなるようにと進んでいくという道を踏んでいくことなのだろう。
職場解放区を考える | - | -

職場解放区実現に向けて

職場解放区とはどういう地帯を指すのであろう。

「対立社会のあらゆる誤り、因習的悪循環から、親愛の情と研鑽によって、我々すべての人々を解放する意味」と、『社会革命は如何に成されるか』には書かれてあるが、もう少し考えてみたい。

解放された状態とは、何の束縛も無く、つまり、何も縛られず、押し付けられない自由な状態と言えようか。
何も縛られず、自由な状態で、知性を働かすことの出来る状態ということになるのだろう。
解放された人とは、何も縛られずに、知性を働かせれる人。
解放された職場とは、人を縛ったり、押し付けたりすることが一切無い。つまり、そういう縛り、執われから、一切解放された地帯。

先ずは、自己革命により、自らを一切の束縛から解放するのが出発点になるだろう。
自己革命を経た人達の主体的実践ににより、社会変革に向かう。
しかし、周囲の社会環境は、縛り・執われ(規則・金・常識・責任・義務・権利などなど)で組み立てられたものばかりであるわけだから、そういう中で、そういうものに縛られず、そして、それらの縛りを解放に向けてやっていくには、親愛の情に基づく知性を存分に働かせていく必要がある。

全てのことに対して、「やらなければならない」ということから解放されて、やってもいいし、やめることもできる、やらなくてもいいというベースで考えていけることだろう。
もし、やることにしたとしても、「これをやるには、これはやらなければ・・・」という、「やらなければいけない」という考え方で組み立てていくのではなく、どれだけ、楽に、効率的にやっていけるかに知性をもっと使っていくことではないだろうか。
やると決めて、それを成り立たせていくには・・・というのに知恵を使うのではなく、やるのだったら、如何に縛られること無く、小費・小労・多収・豊産でやれるかということに知性を使っていくことだろう。

忙しい、沢山やることがある、色々声がかかる・・・そういう状態だと、何か充実感があったり、達成感があったりする場合があるが、本来の人間生活から見たら、どうなんだろう?と思う。

急所を押さえることで、余裕がある状態、何時でも変われる、やめれる、つまりは解放された状態で仕事ができる、そういう職場というものをもっと探ってみたい。
職場解放区とは一体どういうものなのかを、実際に即しながら、知的に研究していくことが、今必要なのだろう。
職場解放区を考える | - | -

主体性の回復②

「主体的である」ということを考える機会が再度あった。

自分の感覚を事実として、社会はこんなものとしてあきらめている人は、主体的ではないが、「今の社会はおかしい、悪い」として、「主体的に」活動している人もいる。
こういう場合はどうなんだろう?

「今の社会はこうだ」として、自分の感覚で捉えているという自覚がないという点では、あきらめている人も、社会に対して活動している人でも、同次元だろう。
自分の感覚を事実化して、固定することで、そこに縛られる。主体性を失う。そこは動かさないが、そこからは色々発することができ、そこが主体的に見えても、事実化している部分は動かない。執われている。

主体的というのは、知性が自由に働いている状態ではないか・・・というのが出ていたが、そうなのかもしれない。
広辞苑で、「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」とあったが、自己の純粋な立場において行うというのでは、何物にも縛られない、自由な状態で考え・行っている状態とも言えるのだろう。

「忙しいから・・」とか、「仕事があるから・・」とか、「これはいついつまでにやらなければいけないから・・・」と、状況のせい、周囲のせいのように捉えて、それが事実のようになっている状態では、人間の考え出したこと、自分が考えたことに縛られ、主体性を失い、縛られたような状態になっているということなのだろう。開放区を希っていても、自己革命されぬ人は、知らぬ間に、束縛された社会を作り出していってしまうということなのだろう。


「開放区」ということもどういうことなのか?
どんな場面、状況でも、主体的に考え・生きていける人、つまり、何物にも縛られず知性を働かせられる人が、すなわち開放された人とも言えよう。先ずはそういう人に成り合うということが順序になるのだろう。そういう人が、つまり、開放された人達が、寄り集まり、知恵を寄せて、どんな人も開放されていく方向でいけるように、どうあったらいい、どうしたらいかと具現方式を考案しつつ進んでいくことで開放区が作られていくのだろう。
職場解放区を考える | - | -