本当に解放された姿を知ること

職場解放区とは何かを考えてみる。
「解放」というと、それぞれのイメージが出てく来る。
今窮屈だ、不自由だと感じるものがあると、そこからの解放を思うだろう。
また、従来の窮屈感や不自由感からの解放を思う場合もあるだろう。
もちろん、それも「解放」の一コマではあるだろうが、そこから解放されて解放感を味わえても、それが本当の解放された状態になっているかどうかは分からない。

歴史的に見ても、横暴な王権などから解放されて、財産等を守る権利を勝ち得ることで私有財産制なども生まれたのかもしれないが、そこから新たなる囲いが生じ、それが今の様々な問題を惹き起こす根元になっているという例もあるだろう。

なかなか休みが取れなかった職場で、人が入りあって休みが取れるようになったということがあったとしても、それは若干の縛りが取れて、少しは解放に向かったのかもしれないが、それで良かったでは、縛りのベースの中での一部が改良されたということに過ぎない。職場解放区の実現には程遠い。

何かに縛られた窮屈感からの反動で、そこからの解放を求める場合は、対立的になったり、反発的になったりする場合もあるのだろう。

本当に解放された姿(真実の姿)を知ろうとしないで、部分的な解放された姿を追っても、それはそれだけのこと。
自分なりの解放感を求めての解放区実現の試みでは、新たなる対立を生み出したり、一時的な部分的な解放の動きに止まるだけだろう。

やはり、本当に解放された姿(真実の姿)を知ることが根本で、そこを見極め、そこに至る具現方式を考案しつつ、実際に即して検討を重ね、そうなるように、そうなるようにと進んでいくという道を踏んでいくことなのだろう。
職場解放区を考える | - | -