試論 Ⅲ

 心底で人と人が繋がっている世界(心底の世界)があって、その時その場の状況の中で、その人の意識の表面(心の世界の表層)に心底の世界からストレートに浮かび上がってくる純粋な気持考え意志というものもあるのではないか。

 でも心の世界の表層には不純なものも多くあり、純粋な気持考え意志が覆い隠されてしまっていることもある。表層だけを見ていたら何がなんだか訳が分からない。

 心底の世界そのものは見えないにしても、心底を見ようとすることで心底からストレートに浮かび上がってくる純粋なものとそうでないものと自ずと見分けられていくのではないか。
 
 内観法の体験の中にはこういう面もふくまれているのではないか。
試論 (内観体験から) | - | -

美しい心の要る・・・職場・暮らし・社会

社会(職場)の目標をここに置いて、一日30分でも振り返ってみる
ここでやって行くには、ここの一員になるには、ここの人たちと共にするには、
どうしても、どうしても、美しい心が要る。
それなくしては、恥ずかしくて、辱ずかしくて、居られない。
しかも、ここがダメだとか、こうしなさいとか、誰にも言われない、なおさら身につまされる。
・・・というそんな職場・暮らし・社会。

現状では、周囲の人々も似たりよったりだからか、こんな心でも恥ずかしくも何ともない。「その方が気が楽だ」というのなら、良い社会は決して訪れない。(良い社会を阻止しようとする心)
不平・不満・不足感・優越感・劣等感・勝ち負け感・などなど・・・怒り・憎しみ・恨み等、以ての外。
こういうものある間は一員に成れない、共にやれない、社会・職場・人前に出られない。
採用試験合格者=人物試験合格者

国境を無くする最上の絶対間違いない方法は、・・・・
各自の反省により、欠点を除去し、迎えられる立派さを身に備える事に専心する方が先決


ここをを欠いて、いくら一生懸命やっても、醜い業績を積むだけ。
実現は難しくない。難しく思う人には無理。
物や金や観念的欲求・感情で、ガツガツしない人。
慌てない・焦らない・穏やかな優美な心境、富貴の相。知性ある言動。

このために、自分を研鑽ライフの軌道に乗せる。
本当に良い社会の実現を願い、次代へ贈りたいのなら。
人の正常化 ~ 社会の正常化 | - | -

試論 Ⅱ

 人間の自覚としては、「人間の観念の位置を知る」ということがある。

 人間の観念の位置としては

 ①人間の観念の「事実に対する位置」 - 事実に対しては別のもの

 ②人間の観念の「心底に対する位置」 - 心底に対しては表層のこと

 「人間の観念の位置を知る」ということには、①認識の構造上の位置と②心の世界の構造上の位置との両面を知るということが含まれているように思う。

 人間の観念は「事実に対しては別のものであり心底に対しては表層のこと」であることを知る。
試論 (内観体験から) | - | -

試論 Ⅰ

 心底のもので構成される人間社会と表層のもの(人間の気持感情思い考え等の各種観念)で構成される社会というふうに分けて見ていたが、何か違う。やはり社会そのものの構成は人間の観念によるのだと思う。でも心底にあるものに気付いているかどうかでその社会の質が決まってくる。心底にあるものに気付いている人の観念と気付いていない人の観念とは質的に違っているから、それによって構成される社会の質も違ってくる。

 心底にあるものに気付いていない人は、自分の観念が表層のものであるという自覚がないから、その観念を大事に保持しようとして、観念が固定化絶対化しやすく、それによって構成される社会は形だけのガチガチの社会となり人を縛る。縛られた人の観念(気持も考え)も固まっていく。心底にあるものがますます見えにくくなっていく。身も心も表層だけの世界(観念だけの世界)にはまって生きていく。そこに自由はない。

 心底にあるものに気付いている人は、自分の観念が表層のものであるという自覚があるから、自分の観念を優先させたり大事に保持したりしようとすることもない。固定化絶対化することなく如何様にも進展していく。そういう観念で構成される社会はその時々で、ある形はとるにしても固定することもないから、「人に合わせて」というより「人と共に」どんどん変わっていく。表層のこと(人間観念および人間社会)は自由に如何様にも考えていける。自由はそういうところにあるのだと思う。
試論 (内観体験から) | - | -

自分は どの辺りにいるか を知る

人 間 観 | - | -