先ずやるところは・・・②

自覚が大事と見えてきても、日常に埋没してしまい、自覚が消えてしまい・・・という道をたどる場合がある。

これは、本人の自覚への認識が薄いということも大きいのだろうが、社会の側のテーマも大きいと思う。
社会運営の重点をどこに置いているかが問われるということだろう。

アズワン社会の実現に賛同して、意欲的な人に、どういう道で、どういう場でやってもらうか、というのを考える時に、どこに重点を置くか?

アズワン社会は、真実の世界。つまり、各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会のこと。
自分を知ることから始まっていく。

その人が、今どの段階なのか、どういう順序で進んでいったら、願っていることが実現していくのかを知る必要がある。
自分を知る過程にある人には、そこがやれることが一番の課題だし、そこを飛ばしては、次の段階にもいけないし、願っている社会は実現しない。

自分の感覚と実際を混同している人は、認識の段階で間違いがあるわけだから、そこに起因して、様々な混乱・混線を惹き起こす。
そういうことを自覚しないと、やる気があって活動したり、仕事をしたりすることで、周囲にどういう影響があるかが分かっていない(自覚がない)ことも多々あるようだ。本人は、結構、ひとかどのことをやっている気になったりもする場合もある。

これは、周囲の人が、そういう人をそのような場・役に就けてしまうから、そうなってしまうとも言えよう。
自覚がないことから、そういう事態を惹き起こし、周囲も、それの対処に追われ、願っている社会が、実現していかないということにもなってくる。
仕事がやれる、業績が上がる、運営がスムーズになるということに重点が置かれ、その人が自分を知ることが出来るようにということ重点が置かれていない場合に、こういうことが起ってくるのだろう。

本人の自覚もさることながら、そういう社会実現を願う人が、社会が出来ていくとはどういうことか、どういう道筋でなっていくかを知ることが、大事であることが浮かび上がってきている。

自分を知る過程にある人には、仕事を成り立たすことや、実績を上げることよりも、先ずは、日常が、自分を知る、自覚が出来るところに焦点が当る暮らし、仕事になるようにという社会運営の重点の置き方があるのだろう。

やれないことを自覚して、やれる人になろうとして、そこに焦点を合わせ、やれる人に成りあっていく・・・そこに重点を置く社会運営。
これは、日常がそういう社会運営をするということ。その中に、コースに参加するということも位置づけられていくのだろう
職場解放区を考える | - | -

社会を知るには

社 会 観 | - | -

内観の体験の中から Ⅶ

 今まで、自分を調べるというと自分の気持を調べるみたいなイメージがあって、人にひっかかったり何か不安になった時にそこを調べなくっちゃみたいに思ってきた。いやな気持は早く解消したいと思うからなのだろうが、直接その気持を調べてその気持がスッきり解消したなどという経験は自分にはあまりなさそうだ。そういう気持がすっかり解消するというより他のことに気が紛れてどっかに引っ込むという感じなのだろう。

 今回内観を体験してみて、自分を調べるということをやったように思うが、今振り返ると自分の気持を調べたという感じはしない。内観というからには自分の内を観る、自分の内の心を観るということなのだろうが、自分の内とか自分の心を観るというとすぐ自分のその時の気持感情思いに目がゆく。その辺に何か自分のとりちがいがあったように思う。
 
 内観ではまず実際のことに目を向けて調べようとする。たとえば母が自分にしてくれた実際のことを調べる。自分の記憶をたどりながらも、具体的な事実を調べていく。具体的な事実を調べていると、今の自分の中にそのことに対する何かしらの気持も湧いてくる。その当時はしてもらうことがまったくあたりまえになっていて、してもらっているという意識すらなかったことが、今になって今の自分の中に母にしてもらったんだなという気持がしみじみと湧いてくる。何か不思議な感じもした。

 認識が変わる → 気持が変わる   正しい認識  → 気持(心)が正される

 自分の内観の体験はこういう方向の体験だったような気もする。
内観の体験の中から | - | -

内観の体験の中から Ⅵ

 内観の仕方として、『検事が被告を取り調べるように自分を調べる』という指示もあった。

 たとえば父に対する自分をある年代で調べる時、最初はその年代のいろいろな記憶がよみがえり、それに伴って自分の中にいろいろな気持や思いが湧いてくる。下手するとその思いがふくらんできて『調べる』ことから遠ざかって行く。何とか自分を本題(調べること)に戻して調べ始める。調べることに集中すると、その当時のことに対する自分の見え方も変わってきて、父に対する自分の思い違いや独り善がりな態度とかが浮かび上がってくる。同時に何かやりきれない気持も湧いてくる。途中そういう気持が何度が起こりそこからなかなか抜け出せない時もあった。その時『調べる』ことから遠ざかっている。

 『自分を調べる』とは『検事が被告を取り調べるように自分を調べる』ということなのだということを押さえておきたいと思った。日々自分の中にいろいろな気持が起こる。自分を調べる中でも途中いろいろな気持が起こる時がある。気持に浸っていたら調べられないなと思う。でも人はどんなことをする時でも、そこに何かしらの気分気持は伴っているのではないかとも思う。あまり意識はされにくいと思うが、そういう何かしらの気分気持も、何かそれをよしとしていて(あたりまえとしていて)、それが何かしら前提になってしまっていることもあるのではないか。『検事が被告を取り調べるように自分を調べる』ことの実質をもっと検証してみたいものだ。
内観の体験の中から | - | -

内観の体験の中から Ⅴ

 最近妻とのやり取りの中で自分の心が少しざわつく感じがあった。そのことを振り返っていて、ふと自分は結構妻の思いや言ったことに反応しているなと思った。そして内観での体験も思い出した。内観では妻が自分にしてくれたこと、その具体的な事実を調べた。今でも食事を作ったり洗濯したりといろいろ自分にしてくれている。でもそれは自分にとってあたりまえのことになってしまっていて、たまに妻が愚痴?をこぼすと自分はそれに反応して嫌な気持になったりする。具体的な事実を見ようとせずに、妻の思いとか言ったことを気にして反応する。妻の思いと言っても妻はこう思っているのだろうという当の自分の受け取り方(自分の思い)にすぎないし、妻が言ったことと言ってもそれも自分の感覚で受け取ったものということだが。

 事実の世界と自分の思いは別なのだと、自分は最近考える(思う?)ことも多くなってきていたが、自分の実際は人の思いで世界(世の中)は動くものという見方を相変わらずしていたのではないか。そこがあるから自分の思いを大事にしたり人の思いが気になったりしたのではないか。自分の思いを無性に伝えたくなったり、人の思いを聞くと喜んでみたりひっかかってみたりと思いの世界で目まぐるしく動く。

 世界(世の中)は人の思い(表層の意識)で動いているのではない。人の考え方で動いて行くと言えないこともないが、本当は人の心底にあるもので動いて行くのではないか。内観の体験の中で人の心に包まれている感覚が自分の中に少しだけ芽生えてきたようだ。
内観の体験の中から | - | -