主体性の回復②

「主体的である」ということを考える機会が再度あった。

自分の感覚を事実として、社会はこんなものとしてあきらめている人は、主体的ではないが、「今の社会はおかしい、悪い」として、「主体的に」活動している人もいる。
こういう場合はどうなんだろう?

「今の社会はこうだ」として、自分の感覚で捉えているという自覚がないという点では、あきらめている人も、社会に対して活動している人でも、同次元だろう。
自分の感覚を事実化して、固定することで、そこに縛られる。主体性を失う。そこは動かさないが、そこからは色々発することができ、そこが主体的に見えても、事実化している部分は動かない。執われている。

主体的というのは、知性が自由に働いている状態ではないか・・・というのが出ていたが、そうなのかもしれない。
広辞苑で、「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」とあったが、自己の純粋な立場において行うというのでは、何物にも縛られない、自由な状態で考え・行っている状態とも言えるのだろう。

「忙しいから・・」とか、「仕事があるから・・」とか、「これはいついつまでにやらなければいけないから・・・」と、状況のせい、周囲のせいのように捉えて、それが事実のようになっている状態では、人間の考え出したこと、自分が考えたことに縛られ、主体性を失い、縛られたような状態になっているということなのだろう。開放区を希っていても、自己革命されぬ人は、知らぬ間に、束縛された社会を作り出していってしまうということなのだろう。


「開放区」ということもどういうことなのか?
どんな場面、状況でも、主体的に考え・生きていける人、つまり、何物にも縛られず知性を働かせられる人が、すなわち開放された人とも言えよう。先ずはそういう人に成り合うということが順序になるのだろう。そういう人が、つまり、開放された人達が、寄り集まり、知恵を寄せて、どんな人も開放されていく方向でいけるように、どうあったらいい、どうしたらいかと具現方式を考案しつつ進んでいくことで開放区が作られていくのだろう。
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