「完全専門分業」を探る メモ③

分業ということは、「一つ」のことを分けて行うこと。
これも形の上で分けているように見えても、目的が異なる場合は、実質は分業ではなく、「別業」とも言えようか。
個々バラバラの行いを、自分の利益を得るために、その部分だけを採り入れてやっているだけのこと。
「分業」は「一つ」の中での、一要素、一パートという位置付けなのだろう。

完全専門分業・・・それは、個々の心の状態としてみれば、共栄精神の現われとも言えようか。
個々バラバラの心の状態で、いくら分業のような形態をとっても、それは形だけのもので、完全なものではない、「一つ」のものになりようがない。
他が栄える、他が豊になる、そこを純粋にやりたいという心の状態。
それは、ある面で、正常=健康=豊かな状態。でも、これも特別なことでもないのかもしれない。
どういう心の状態なのか・・・検べること。自覚すること。
そして、正常な心の状態でやれるような環境を造ること。

儲けるにしても、安いものを買うにしても、何でも二通りあるようだ。
共栄していく方向と、個々人主義の方向と・・・。
現象でみると分からない。
心の状態。自分がどちらの方向でやろうとしているのか。

やりたいならやったらいい。
欲しいんだから、使ってもらったらいい。
こういうことでは、どっちの方向にいくか、分からない。
共栄していく方向にあるのかどうか・・・。
そこに目が向くかどうかにあるようだ。
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我執の研究④

観念が変わることは、現象界の変化でも起るし、思い込みでも、勘違いでも、変わることがある。
もちろん、観念の転換から現象界も大きく変わるわけで、正常な観念への転換は必要なことだろうし、正常な観念になるようにというのは大事なことなのかもしれない。

しかし、この「観念の転換」の中身も、もう少し慎重に検べていかないと、何による転換なのか、また、転換したものを持ってしまっても、単なる持ち替えというだけで、正常な観念にはならないことになってしまう。
持ってしまうというのでは、例えば、「誰かのもの」という観念から「誰のものでもない」という観念になったとしても、「誰のものでもない」というのを観念的に持つようになってしまったら、「誰かのもの」という観念と同次元のもの。
どういう観念になるか、というところに焦点を当てると、結局、持つというところでは変らない。つまり、我執の観念のままなのではないだろうか。
こういう観念の転換という現象的なところに焦点が当たると、「怖い豚」が「怖くなくなる」と転換したり、「残れない」と思っていた人が、「残れます」という変化があると、それでよかったという風になってしまう。
何で観念が変り、現象が変ったのか?
観念の変化は、いろんな要素で変り得る。それで我執が取れたのか、我執がついのたか、見極める必要があると思う。

どういう風な観念になったか、というよりも、どういう中身で考えていけたか、検べていけたか、そこに実質があるように思う。
怖いでも、すきでも、残れても、残れなくても、どういう中身でそうなっているのか、どういう風に考えているのか、そこを検べていこうとなる自体が、執われから、もう既に放れはじめているのだろうし、検べることで、どいうことでそうなっているのか、そのメカニズムが見えてくるのだろう。見えてきたら、それをどうするか・・・は、自ずと明らかになるのだろう。見えないうちに、どうこうしようなどとする必要はないのだろう。

客観的に検べられる状態=我執から放れている状態とも言えるのだろうか。
我執の研究 | - | -

自分を自覚する 人間を自覚する

自分の暮らし、行動、出てくる思い、感情、などを客観的に見る練習を・・・。
どういう意識で暮らしているか、どういう感覚で暮らしているか。

「自分の感覚」を知る。 選択・判断・行動の元になっているもの。
   ・「無意識」の意識。自覚のない「意識」。
   ・「共通意識」「共通観念」「社会通念」。

私は自分の感覚が、どれくらいあてになると思っているか?
  「素晴らしいこと」「ひどいこと」など、自分の感覚という自覚。
  みんなも同じ感覚? 誰もがそう思う? 自分の感覚を信じている。
  自分の感覚で人を裁く。自分の感覚で自分を裁く。

自分の感覚がどうなっているか、メカニズムを調べる。善悪判断なしで。
  「裁く」のは悪い、オカシイ、があると調べられない。

自分の感覚と人の感覚・・・自分の中で「他の人の感覚の存在」がどうなっているか。
  ここでも、良い悪いがあると自分の中身を調べられない。
  「人の感覚」という意識が無い時、自分の中はどんな状態か。
  自分の感覚という自覚意識なく、自分の感覚で暮らしている時、自分の中はどんな状態か。

「私はなぜ・・・?」と問えるようになる前の練習。
  自分がしている実態、自分の状態を捉えられるようになってから、「なぜ?」と自分に問う。
  オカシイから、ヘンだから、なぜ?と問うのではない。
  例 「なぜ食べるの?」
  頭で理由を答えるのではなく、食べる時の自分の状態を捉えられるようになってから、「なぜ?」が始まる。

自分の思いを優先する。
    先ず、自覚、それから、自分の中がどうなっているか、それから、なぜ優先するのか。
    自覚とは何か? 自覚がある状態と自覚がない状態との違いは?

自分の考えに自信がある
    先ず、自覚、それから、自分の中がどうなっているか、それから、なぜ自信があるのか。
    自信とは何か?
      「知っている」とは、どういう状態か?
       見た、聞いた、体験した・・・「知っている」となるのは?
      「思っている」とは、どういう状態か?
       過去に思った、いま思う・・・「思っている」となるのは?


自 動 販 売 機 の 例
お金を入れてジュースのボタンを押したらジュースが出てきた・・・○?
お金を入れてジュースのボタンを押したらコーヒーが出てきた・・・×?
お金を入れてジュースのボタンを押したらお金が出てきた・・・・・×?
お金を入れてジュースのボタンを押したら何も出なかった・・・・・×?

善悪○×判断を入れなければ、どれもが、そうなるべくしてなっているだけ。
結果の良し悪しではなく、どうなっているか、中の状態を調べる。

「ひとこと」聞いて、ああそうか、と出た自分
「ひとこと」聞いて、感情が出た自分
「ひとこと」聞いて、たくさん思いが出た自分

どうなっているか、その都度、その都度、自分の中のメカニズムに着眼する。
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我執の研究③

人間の認識を考えてみる。
脳科学の研究にあるように、自分の脳の中にあるものしか認知できないとすると、事実を見るといっても、事実に反応している脳の視覚の認知作用を、意識(自己とか、ホムンクルスルスとかいうが、これも脳の作用)というものが、綜合して認識したものが、「見る」ということになるのだろう。
その綜合するという中に、事実に反応しているものと、過去の経験や様々な知識や考え方が合わさって、認識が形成されていくようだ。
見るとか、聞くとか、事実を知ると言っても、結局、実際に反応しているものとと自分の中にあるものの混合物であるということでしかない。
人間の認識というものは、そういうものであるという自覚。
そこがないところから、執われが始まるようである。
認識したことが事実であるとうい勘違い。そこが思い込みのベースになる。(思い込みという自覚もできない)

脳の中にあるものしか認知できないということはそうなのだろうが、それを知った上で、事実に反応しているものを、できるだけそのまま見ようとする、つまり、主観的なものをできるだけ取り除いて、見ようとすることはできるだろう。事実に反応する脳の認知機能はなかなか精巧に出来ていると思われる。その能力も、主観的なものを外すことで、もっと活かせるのだろう。
また、感覚、そこからの認識、そこからの判断、そして様々な思考等の脳の中のいろいろなプロセスも、ある程度、客観的に見ることとも出来る能力が、人間にはあるようだ。そこを見ることで、無理のあるもの、間違った思考回路などは、検出、訂正することも出来るのだろう。

人間の認識はどういうものかを知り、その限界も知った上で、できるだけ、事実、実際に即していこうとすることで、観念に振り回されない生き方が出来るのだろう。
我執の研究 | - | -

「完全専門分業」を探る メモ②

すごく繁盛している戸隠そばの御主人は、自分の持ち場である蕎麦打ちに専念していて、一日の蕎麦を打ち終わると、店が昼の超混雑をしている時には、仕事を終え、くつろいでいるという姿が紹介されていた。持ち場に専念して、そこを極め、高いレベルの職人の仕事をしている姿なのだろう。
専念している姿としての専門分業というのは、今の社会の中にもたくさん実例があるのだろう。
が、完全専門分業というのは、どういう成り立ちなのだろう?
この御主人が専念できているというのもどういう要素で成り立っているのか、と見ていくと、完全とは言えないものが出てくるのだろう。
お金で雇っている関係であるとか、決められた固定した関係であるとか、義務・権利というような位置付けで、自分の持分をやっていれば休む権利があるというような成り立ちなのかもしれない。(検べていないので実際はどうか分からないが)
そう考えていくと、持ち味の場に就くとか、持ち場を探るという前に、やはり我のない、囲いや境のない状態に成り合った人同士の関係というのが先にあるというのが、完全専門分業社会のベースなのではないかと見えてくる。そこがあって、それから持ち味の場に就いていくという順序になるのだろう。

養鶏書の一節に「求められる雛を造る事のみを考えて専念して居れば、質の事や値段の事等を一口も云わなく共、必ずその種卵は認められて、安く売ろうとしても、買う方が種鶏家を栄えさす値段にするものです。」とあるが、ここも完全専門分業に繋がるあり方を記してあるようだ。
この「求められる」というのもどういうものなのだろう?
「売れる」=「求められる」ではないだろう。(このへんを勘違いしやすのかも)
一時的な流行とか、ブームとかとは異った、本来の「求められる」ものがあるのだろう。
社会の本来の姿を知り、繋がりを知り、そのやることの目的を知ることから、「求められる」ものが観えてくるのだろう。
先ずは、そこを知ることから始まるのだろう。
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