覚書 Ⅲ

 「内観の成功例失敗例中断例いろいろある。面接者はそれで自分を評価するようなことはしないということが大事だ」とある内観研修所の所長をしておられる男性が話していた。

 これも自分の印象に残る話だった。自分を評価しないということの前に、内観者を評価しないということがあると思う。面接していても、内観者の内面は本当は分からないものだ。いろいろ憶測は出来るが、それはあくまでも憶測に過ぎない。

 内観研修所で数十年にわたって面接をやり続けている人の話、どの人の話も味わい深いものだった。自分自身の体験に根ざした自分の言葉で語っている。その体験というのも、言ってみれば<人の話を聴く>という体験だ。何かとても深みのある体験のように思う。

 内観に対する見解も微妙に違っているように思った。それぞれ自分の思想で内観に打ち込んでいる。そんな印象を受けた。
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覚書 Ⅱ

 また別の内観研修所の所長をしておられる女性(50代?)は「吉本先生に『泣いている暇があったら内観しなさい』と言われた」と話していた。

 内観法の創始者吉本伊信はそこまで言っていたのかと、自分の中に何か感心するものがあった。内観の中で何かに気付いて、感動したり涙を流したりする人もいる。でもその時は内観(調べること)が止まっている。内観は調べることが本筋で、感動を求めるものではない。感動や感傷の涙に溺れていないであくまで内観に取り組む。

 涙を流している人が必ずしも深い内観をしているとは限らない。涙もろい人はいる。何かに気付いたと自分で思い込んで感動する人もいる。内観に感動や涙を結びつけてイメージする人もいるようだが、それは表面しか捉えていないということだ。
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覚書 Ⅰ

 内観研修所の所長をしておられる女性(60代?)が、気付きの質ということを話してくれた。その人は二十年にもわたって千人以上もの内観者の面接を経験しているとのことだ。

 面接していて、自分の中でいろいろ思うことがあり、言いたくなることもある。早く気付いて欲しいと思うこともある。でも実際にそのことを内観者に言うのは、せいぜい百のうちに一つぐらいだ。気付きの質ということを思う。人に言われて気付くのと、内観により自分自身で気付くのと、やはり質がちがうのではないか。本人が人に声かけられて気付いて喜んだとしても、浅いものであれば表面の一時の変化に終わってしまう。あくまで本人が気付くのを待つ。気付かなければそれでよい。内観は自分自身で気付くために用意されている。主体は内観者、面接者はあくまでも<淡々と聴く>に徹する。

 その人の話を、自分はこう受け取った。
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人が決めたこと(ルール・規則等)に対する意識

人が決めたこと、ルールや規則や法律が、どのような意識で捉えられているかを観察してみると・・・・。
研鑚会で出た例からのメモと感想。

決められたゴミを出す場所以外の場所にゴミを捨てているAさん。
「本来は、あそこに捨てることになっているんだけど、事情があってこっちに捨てて・・・」と説明する。
「本来」って、どういうことだろうか?
今の段階で、人間がとりあえずの何らかの理由・都合で取り決めたことを、「本来」という意識で捉えているようだ。
だから、その「本来」とは違う行動をとる自分に対して、「自分には事情があって」と、殊更に正当性を主張したくなるような意識になっているようだ。

あるドラッグストアの駐車場に車を停め、その店以外の用事を済ませようとしていたBさん。店の人が、じっと自分を見ているような気がして、「本当はしちゃいけないんだろうけど・・・、でも、Cさんも、Dさんも同じ事しているし、Sさんは、ここに停めてもいいと言ってたし・・・」と頭を回転させる。
「本当」とはどういうことを指して言っているのだろう?
仮に、お店の人が、「ここは俺の店の駐車場だ。停めてはいかん!」と言ったとしても、それが本当のことなのだろうか?
お店の人は、その人の価値観・考えで、そう思うということはあるだろう。
でも、それが本当のこと?
そこの場所は、本当は・・・?
人間の考えでは、自分の場所とか誰かの所有とかは出てくるだろうか、そのものはそのもので、本当は、誰かのものとかは関係ないこと・・。

人間が今の段階で取り決めたことが、あたかも現実に存在するかのようになったり、それが本来的なものとか、本当のことのように観えてしまう意識構造があるようだ。
その意識構造に光が当たると、その人の中で、人間の考え、人間同士の取りあえずの決め事というものの実質が浮かび上がり、客観的に観え、検討の対象になってくる。即ち、キメつけが外れ、縛りから開放された状態になり、そこから色々考えていけるようになる。
意識構造に光が当たるということは、自分の捉え方が客観的に観えるようになるということ=自覚。
そしてまた、「本当」とか「本来」とは、本当はどういうことを指しているのか・・・と、そこに焦点がいくことが、研鑽への一歩なのだろう。
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自分を知るための内観コース(内観法)の由来と概要

 浄土真宗の一派に身調べという求道法(悟りを得るための修行法)があり、それは、部屋に籠って飲まず食わず寝ずの状態で、自分をとことん反省し、自分の実際の姿・本当の姿(仏教では罪悪深重の自分)を知ることを通して悟りに至るという苦行的な方法でありました。

 信者の吉本伊信氏が、この方法は、自分を反省し自分を知る方法として一般の人にも有効ではないか、ぜひ一般の人にも広めたいという熱意のもとに、その身調べという方法から苦行的要素と宗教的要素を取り除いて、誰にも通用する(誰でもできる)自分を知るための自己観察法として考案・確立したものが、現行の内観法というものです。

 内観法の目標とするところは「どんな境遇にあっても幸福に生きることができる心境になること」です。
 
 すでに60年以上にわたり実践されてきており、現在、内観研修所は全国で十箇所以上あり、その他精神医療や教育の現場にも取り入れられています。また少年院や刑務所では更生・社会復帰のために活用されているようです。

 2006年からこの内観法を取り入れ、「自分を知るための内観コース」として開催しています。

 内観コースでは、自分の人生を幼少の頃から現在にいたるまで具体的に調べるというとことで、自分の人生を見直す機会になると思います。それも両親やその他周囲の身近な人たちとのかかわりの中での自分を調べるので、自分の生い立ち(成り立ち)を知る機会ともなるでしょう。またどの時代のことを調べる時も、一貫してその時の自分に向き合って、自分をよく見てよく調べることが肝要で、まじめにそこに取り組むことで、自分を見る(自分を客観的に観察する)目が養われて行きます。最近特にこの点が研鑚ライフセンターにおいては着目され、自己観察能力養成を目的にこの内観コースに参加する会員の人が増えているようです。
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