人が決めたこと(ルール・規則等)に対する意識

人が決めたこと、ルールや規則や法律が、どのような意識で捉えられているかを観察してみると・・・・。
研鑚会で出た例からのメモと感想。

決められたゴミを出す場所以外の場所にゴミを捨てているAさん。
「本来は、あそこに捨てることになっているんだけど、事情があってこっちに捨てて・・・」と説明する。
「本来」って、どういうことだろうか?
今の段階で、人間がとりあえずの何らかの理由・都合で取り決めたことを、「本来」という意識で捉えているようだ。
だから、その「本来」とは違う行動をとる自分に対して、「自分には事情があって」と、殊更に正当性を主張したくなるような意識になっているようだ。

あるドラッグストアの駐車場に車を停め、その店以外の用事を済ませようとしていたBさん。店の人が、じっと自分を見ているような気がして、「本当はしちゃいけないんだろうけど・・・、でも、Cさんも、Dさんも同じ事しているし、Sさんは、ここに停めてもいいと言ってたし・・・」と頭を回転させる。
「本当」とはどういうことを指して言っているのだろう?
仮に、お店の人が、「ここは俺の店の駐車場だ。停めてはいかん!」と言ったとしても、それが本当のことなのだろうか?
お店の人は、その人の価値観・考えで、そう思うということはあるだろう。
でも、それが本当のこと?
そこの場所は、本当は・・・?
人間の考えでは、自分の場所とか誰かの所有とかは出てくるだろうか、そのものはそのもので、本当は、誰かのものとかは関係ないこと・・。

人間が今の段階で取り決めたことが、あたかも現実に存在するかのようになったり、それが本来的なものとか、本当のことのように観えてしまう意識構造があるようだ。
その意識構造に光が当たると、その人の中で、人間の考え、人間同士の取りあえずの決め事というものの実質が浮かび上がり、客観的に観え、検討の対象になってくる。即ち、キメつけが外れ、縛りから開放された状態になり、そこから色々考えていけるようになる。
意識構造に光が当たるということは、自分の捉え方が客観的に観えるようになるということ=自覚。
そしてまた、「本当」とか「本来」とは、本当はどういうことを指しているのか・・・と、そこに焦点がいくことが、研鑽への一歩なのだろう。
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