覚書 Ⅷ

 内観法そのものに手を加えずに内観法の枠組みの中で、研鑚状態にある人が自己研鑽をするということは出来る。自己研鑽の場として活用できる。もちろん内観法そのものを改変・改良していく余地はあるとは思う。ただ今の「世話になったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」という三つのテーマで調べるという設定や、環境の用意のされ方等をそのまま採用しても、自己研鑽するのに支障はないと思う。

 もともと内観法でも具体的な事実を調べるというようにうたわれている。事実を見て調べようとする中で内容的には「自分は事実の一面しか見ていなかった」とか「自分の思い込みで事実が見えなかった」という気付きが出てくる。それがその人のそれまで持っていた人間観や人生観の転換に繋がるわけだし、事実を見ていこう事実に向き合い事実をそのまま受け入れていこうという姿勢(生き方)が養われる。内観法のそういう面が評価されているからこそ、精神医療・教育・社会更生等の現場で採用されたり、自己啓発のためにも活用されたりしているのだと思う。

 ただ、現在各地で行われている内観法においては、多分、人間(自分)の捉える事実と事実そのものは別という観点は、はっきりとは意識(自覚)されてはいないように思う。内観法にその観点を加えて実践・活用していくことかと思う。そうすることで、内観過程や面接も形式は変わらないが、実質の中身が何か変わっていくのではないか。
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覚書 Ⅶ

 ある内観研修所の所長をされている人が、面接において内観の進展具合を観る時の観点をいつくか挙げていたが、その中で「その人に知恵が発動しているかどうか、苦しみの道理が観えているかどうか」というような表現をされた。

 苦しみの道理、心の動きの道理とも言い直されていたようにも思う。不平不満や怒りの感情の発生のメカニズムというものはあるのだろう。心理学等においても分析・解明されているのかと思う。ただ、内観で自分の心を観るといっても、そういう分析を自分に施すわけではない。考えるというよりひたすら自分の心を見つめようとする。そういう中で、たとえば不平不満の種(元)が自分にあることにフト気付く。今まであまり意識していなかったが親の愛情に気付き心が動く。自己中心的な自分の姿(心)が観えてくる。そういうことを体験するわけだが、それが自分の心を知るということで、それはまた心の理(心の動きの道理)に触れると言ってもよいのではないか。自分の心を見つめることで、苦しみの道理、心の動きの道理が観えてくる。その時その人の中に知恵が発動している。自分の内面に目を向ける素地が出来ている。
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覚書 Ⅵ

 内観法の創始者吉本伊信が説いているように「いかなる状況にあっても幸せな心で暮らせるようになる」ということが内観の目的である。

 ある内観研修所の所長をやっておられる女性の言葉を借りると、
 
 「昔から、自分を知る目的で様々な試みが為されてきているが、いずれにしても、まず、自分と向き合い、自分で自分をしっかり調べてみることが必要となる」「自分で気付くことで人は変われる」「目の前の問題を解決するということのみにとらわれるのではなく、本人の心の持ち方自体が、幸せに生きれるような心に変わっていく」「内観を深めればどんな状況になっても人は幸せな気持で生きて行ける」。
 
 これらの言葉の中にも内観の目的や本質が表現されているように思う。
 
 内観(内心の観察)は自分自身の心の有り様・心の持ち方に焦点を当てるものだ。

 内観法の「世話になったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」という三つのテーマは、自分の心の有り様(状態)に焦点をあて、それを浮かび上がらせるテーマと言えるのではないか。この三つのテーマで周りの人に対する自分を調べることで、周りの人に対する自分の心の有り様が見えてくる。「面接者が特に何も言わなくても、自然に自分の中に気付きが出てくるのである」。

 苦しみの道理(心の動きの道理)も見えてくる。対人的心の持ち方(人格)が養われていく。自分で自分を調べることで、自分に気付き、幸せに生きれる心を自分で養っていく。こういうふうにも内観過程は表現できるのではないか。その過程で、自分を見る目(自己観察力)や自分を調べる力(自己洞察の推進力)が養われるという大きな余得もある。
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覚書 Ⅴ

 内観<法>というからには、そこには、<ある方法>が設定されていなければならない。「内観とは内を観ることだ」とか「内心の観察だ」と言っただけでは、その方法を説明したことにはならない。
 
 内観法すなわち<内心を観察する方法>は、一つとは限らないと思う。いろいろ方法は考えられるだろう。ただ吉本伊信氏の考案した内観法を採用する場合、その方法とするところのものは何か、その方法の核心的部分は何かということを、先ず押さえておかなければならない。そこを押さえた上で、その方法(内観原法)を活用・実践する際に、原法に二次的(副次的)な方法が加えられて具体化していく。

 吉本伊信氏の内観法の核心的部分(内観原法)は、<「世話になったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」という三つのテーマで、周りの人に対する自分がどうであったかということを、年代(年齢)ごとに具体的な事実に即して調べていくこと>と言ってもよいと思う。

 ただ、それを内観者各自が具体的に実践・体験するに際しては、いろいろな面が考えられる。その内観者にとっては先ず誰に対する自分を調べたらいいのか、どういう順序で調べていくのがいいのかというように、その内観者に適切なプログラムというものはあるように思う。

 ある内観研修所では、・・・に対するを自分を調べる時の順序が、母→父→母→父(養育費の計算もここに入れる)→配偶者→嘘と盗み→周りの人たち(友達等)といったように、定められている。もちろん固定したものでもないが、一週間のプログラムが大まかに組まれている。<物に対する内観>や<自分の身体に対する内観>というものを取り入れている研修所もあるようだ。

 こういうプログラム(原法に対する二次的方法)は、内観が進むようにと設定されたものに違いないが、それは、その内観研修所の経験や臨床心理等の観点(内観に関わる臨床心理士の人は多い)から組まれたもので、何に主眼を置くかによっても、また少しづつ違ってくるに違いない。

 各地の内観研修所では、内観原法(吉本内観法)を遵守しながらも、その採用・実践における二次的方法のレベルでも、いろいろの検討・工夫がなされている実態が窺がえる。

 何に主眼を置いて内観法を採用するかということを踏まえた上で、一週間のプログラムを検討していく余地は随分あるのだろう。またその人が内観コースに参加する目的や動機に応じた適切なプログラムという観点もある。何かの問題を解決することに主眼を置くのか、自己観察力の養成に主眼を置くのかとか、いろいろ考えられる。

 ただ固定的になって、いろいろな可能性にふたをするということがないように心したいものだ。得てして意欲の高まりや熱意というものが視野を狭めるものだ。
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覚書 Ⅳ

 <面接者の心得>という中に「内観者に対しては、全受容・全肯定を心懸ける」「話の内容、態度が分からない、納得できない、不条理であっても、そのまま受け入れる」とある。

 これも<内観者が面接者に依存せずに、自分自身で調べること>を期するものである。面接では内観者が三つのテーマで調べたことを報告することが求められるが、そこから外れていると思われる場合の声かけも慎重に行われる。

 <一人3~5分で>とされている面接で、黙って聴いていたら一時間もたってしまった、そんな経験もあるとのこと。

 内観者に対するアドバイス等の声かけは最低限に押さえられる反面、内観者(の内観過程)に対する配慮は、非常にきめ細かく行われる。内観者が(面接者をも含めた)他に気を逸らさずに、自分を見て調べることに集中できるようにとの配慮。長年面接をやっている人の話から、それが窺がわれるように思えた。こうすると決まったものでもなく、その人の経験(や思想?)から滲みでるようなもののような気もする。

 <自己に対峙する姿勢への尊敬><自己発見の道筋における同伴者>という言葉も印象に残った。

 方法としては単純であるが、究めていくところは、限りなくある、そんな印象を持った。
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