覚書 Ⅴ

 内観<法>というからには、そこには、<ある方法>が設定されていなければならない。「内観とは内を観ることだ」とか「内心の観察だ」と言っただけでは、その方法を説明したことにはならない。
 
 内観法すなわち<内心を観察する方法>は、一つとは限らないと思う。いろいろ方法は考えられるだろう。ただ吉本伊信氏の考案した内観法を採用する場合、その方法とするところのものは何か、その方法の核心的部分は何かということを、先ず押さえておかなければならない。そこを押さえた上で、その方法(内観原法)を活用・実践する際に、原法に二次的(副次的)な方法が加えられて具体化していく。

 吉本伊信氏の内観法の核心的部分(内観原法)は、<「世話になったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」という三つのテーマで、周りの人に対する自分がどうであったかということを、年代(年齢)ごとに具体的な事実に即して調べていくこと>と言ってもよいと思う。

 ただ、それを内観者各自が具体的に実践・体験するに際しては、いろいろな面が考えられる。その内観者にとっては先ず誰に対する自分を調べたらいいのか、どういう順序で調べていくのがいいのかというように、その内観者に適切なプログラムというものはあるように思う。

 ある内観研修所では、・・・に対するを自分を調べる時の順序が、母→父→母→父(養育費の計算もここに入れる)→配偶者→嘘と盗み→周りの人たち(友達等)といったように、定められている。もちろん固定したものでもないが、一週間のプログラムが大まかに組まれている。<物に対する内観>や<自分の身体に対する内観>というものを取り入れている研修所もあるようだ。

 こういうプログラム(原法に対する二次的方法)は、内観が進むようにと設定されたものに違いないが、それは、その内観研修所の経験や臨床心理等の観点(内観に関わる臨床心理士の人は多い)から組まれたもので、何に主眼を置くかによっても、また少しづつ違ってくるに違いない。

 各地の内観研修所では、内観原法(吉本内観法)を遵守しながらも、その採用・実践における二次的方法のレベルでも、いろいろの検討・工夫がなされている実態が窺がえる。

 何に主眼を置いて内観法を採用するかということを踏まえた上で、一週間のプログラムを検討していく余地は随分あるのだろう。またその人が内観コースに参加する目的や動機に応じた適切なプログラムという観点もある。何かの問題を解決することに主眼を置くのか、自己観察力の養成に主眼を置くのかとか、いろいろ考えられる。

 ただ固定的になって、いろいろな可能性にふたをするということがないように心したいものだ。得てして意欲の高まりや熱意というものが視野を狭めるものだ。
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