内観の体験の中から Ⅶ

 今まで、自分を調べるというと自分の気持を調べるみたいなイメージがあって、人にひっかかったり何か不安になった時にそこを調べなくっちゃみたいに思ってきた。いやな気持は早く解消したいと思うからなのだろうが、直接その気持を調べてその気持がスッきり解消したなどという経験は自分にはあまりなさそうだ。そういう気持がすっかり解消するというより他のことに気が紛れてどっかに引っ込むという感じなのだろう。

 今回内観を体験してみて、自分を調べるということをやったように思うが、今振り返ると自分の気持を調べたという感じはしない。内観というからには自分の内を観る、自分の内の心を観るということなのだろうが、自分の内とか自分の心を観るというとすぐ自分のその時の気持感情思いに目がゆく。その辺に何か自分のとりちがいがあったように思う。
 
 内観ではまず実際のことに目を向けて調べようとする。たとえば母が自分にしてくれた実際のことを調べる。自分の記憶をたどりながらも、具体的な事実を調べていく。具体的な事実を調べていると、今の自分の中にそのことに対する何かしらの気持も湧いてくる。その当時はしてもらうことがまったくあたりまえになっていて、してもらっているという意識すらなかったことが、今になって今の自分の中に母にしてもらったんだなという気持がしみじみと湧いてくる。何か不思議な感じもした。

 認識が変わる → 気持が変わる   正しい認識  → 気持(心)が正される

 自分の内観の体験はこういう方向の体験だったような気もする。
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内観の体験の中から Ⅵ

 内観の仕方として、『検事が被告を取り調べるように自分を調べる』という指示もあった。

 たとえば父に対する自分をある年代で調べる時、最初はその年代のいろいろな記憶がよみがえり、それに伴って自分の中にいろいろな気持や思いが湧いてくる。下手するとその思いがふくらんできて『調べる』ことから遠ざかって行く。何とか自分を本題(調べること)に戻して調べ始める。調べることに集中すると、その当時のことに対する自分の見え方も変わってきて、父に対する自分の思い違いや独り善がりな態度とかが浮かび上がってくる。同時に何かやりきれない気持も湧いてくる。途中そういう気持が何度が起こりそこからなかなか抜け出せない時もあった。その時『調べる』ことから遠ざかっている。

 『自分を調べる』とは『検事が被告を取り調べるように自分を調べる』ということなのだということを押さえておきたいと思った。日々自分の中にいろいろな気持が起こる。自分を調べる中でも途中いろいろな気持が起こる時がある。気持に浸っていたら調べられないなと思う。でも人はどんなことをする時でも、そこに何かしらの気分気持は伴っているのではないかとも思う。あまり意識はされにくいと思うが、そういう何かしらの気分気持も、何かそれをよしとしていて(あたりまえとしていて)、それが何かしら前提になってしまっていることもあるのではないか。『検事が被告を取り調べるように自分を調べる』ことの実質をもっと検証してみたいものだ。
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内観の体験の中から Ⅴ

 最近妻とのやり取りの中で自分の心が少しざわつく感じがあった。そのことを振り返っていて、ふと自分は結構妻の思いや言ったことに反応しているなと思った。そして内観での体験も思い出した。内観では妻が自分にしてくれたこと、その具体的な事実を調べた。今でも食事を作ったり洗濯したりといろいろ自分にしてくれている。でもそれは自分にとってあたりまえのことになってしまっていて、たまに妻が愚痴?をこぼすと自分はそれに反応して嫌な気持になったりする。具体的な事実を見ようとせずに、妻の思いとか言ったことを気にして反応する。妻の思いと言っても妻はこう思っているのだろうという当の自分の受け取り方(自分の思い)にすぎないし、妻が言ったことと言ってもそれも自分の感覚で受け取ったものということだが。

 事実の世界と自分の思いは別なのだと、自分は最近考える(思う?)ことも多くなってきていたが、自分の実際は人の思いで世界(世の中)は動くものという見方を相変わらずしていたのではないか。そこがあるから自分の思いを大事にしたり人の思いが気になったりしたのではないか。自分の思いを無性に伝えたくなったり、人の思いを聞くと喜んでみたりひっかかってみたりと思いの世界で目まぐるしく動く。

 世界(世の中)は人の思い(表層の意識)で動いているのではない。人の考え方で動いて行くと言えないこともないが、本当は人の心底にあるもので動いて行くのではないか。内観の体験の中で人の心に包まれている感覚が自分の中に少しだけ芽生えてきたようだ。
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内観の体験の中から Ⅳ

 内観の方法として、最初指示されたことは、母に対する自分を①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことの3点について、年代順に具体的な事実を調べます、ということだった。

 具体的な事実を調べると言っても最初は自分の記憶に頼ろうとする。自ずと記憶は湧いてくるものだ。自分の記憶する範囲で調べようとする。わりと自分の中の記憶がハッキリしている時代はいいが、自分の中で記憶のうすい時代は調べようがない感じがした。そんな時に面接で「実際はどうかと具体的な事実を調べます」と声かけてくれた。今思うと自分の過去の記憶をそのまま過去の事実としてそれを調べようとしていたのだなと思う。記憶があるないにかかわらず過去の事実(実際)はある。母がいなかったら自分は生まれてもいないし母の世話がなかったらその後の自分の人生もない。あたりまえと言えばあたりまえのことだが「ああそうだな」と何か納得するものがあった。今振り振り返ってみると自分の中で記憶と事実が分かれてきた、記憶は記憶、実際はどんなだったか、そんなふうに頭が働きだした、そんなふうに言えるような気もする。でも実際を調べようとしてどれほどのことが自分に観えてきたかは覚束ない。母については3回調べたが調べるたびに観え方が違ってくる。でも回を重ねるたびに身にしみてくるものがあった。何か方向があるような気がする。観え方(観念の世界)が心の世界に一致していく(寄り添っていく)方向?・・・
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内観の体験の中から Ⅲ

 内観ではたとえば母に対する自分を年代ごとに調べていくのだが、そのことに集中できなくなることがあった。いや最初の方は集中できない時間の方が多かったと思う。ある年代では、たとえば自分の自意識がとくに強くなってきたと思われる中学時代の時など、学校での友達とのこととか学校の先生のこととかいろんな記憶がよみがえり、またそれに伴って自分の中にいろいろな思いがわいてきて、本題の母に対する自分を調べるということにはなかなか集中できなかった。本題にもどってもまたすぐ意識が別のことに移ってしまう。今振り返ると最初の何日間は本題に集中する練習期間であったと言えそうだ。いろんな思いが出てきてもスッとそれを置いて本題に集中する、それがなかなかむずかしい。集中しようと思っても集中できない。そのうちにだんだんスッと本題に行くことができるようにもなってきたように思うが、この本題にスッと行くというか乗るというか、自分はまだここのところの骨がつかめたとも思えない。

 またこういうこともあった。調べている途中で本当にこんな調べ方でいいのだろうかと思って止まることがある。内観にも深い浅いがあると聞いている。何か自分の内観が浅い感じがして、やっぱ自分はふだん頭でばかり考えているから自分を深く見つめることがしにくいのだ、何か上滑りで身にしみるものがないとかいろいろ思い始める。そういうことが何度かあったように思う。途中、内観のしかたという内容のテープを聞いた時、自分の内観が深いのかな浅いのかなと思うこと自体本筋でない、その時すでに内観から離れているのだなと思い、それが自分の節目にもなったように思う。内観(調べること)に集中する、本当に集中していたらいろんな思いも出てこないと思うが、たとえ何かの思いが出てきてもそれを置いてスッと本筋に戻れるというか乗れるというか、その瞬間はなかなか自分で捉えきれるものではないが、そこ(その瞬間)が要(かなめ)のような気がもする。自分の中で磨いていくところはそこの一点、と言ったら言い過ぎだろうか。聴く時も観る時も考える時も調べる時も本筋を行く・・・本筋を行く生き方・・・そこが研鑚の入り口?・・・いろいろ思う。
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