内観の体験の中から Ⅶ

 今まで、自分を調べるというと自分の気持を調べるみたいなイメージがあって、人にひっかかったり何か不安になった時にそこを調べなくっちゃみたいに思ってきた。いやな気持は早く解消したいと思うからなのだろうが、直接その気持を調べてその気持がスッきり解消したなどという経験は自分にはあまりなさそうだ。そういう気持がすっかり解消するというより他のことに気が紛れてどっかに引っ込むという感じなのだろう。

 今回内観を体験してみて、自分を調べるということをやったように思うが、今振り返ると自分の気持を調べたという感じはしない。内観というからには自分の内を観る、自分の内の心を観るということなのだろうが、自分の内とか自分の心を観るというとすぐ自分のその時の気持感情思いに目がゆく。その辺に何か自分のとりちがいがあったように思う。
 
 内観ではまず実際のことに目を向けて調べようとする。たとえば母が自分にしてくれた実際のことを調べる。自分の記憶をたどりながらも、具体的な事実を調べていく。具体的な事実を調べていると、今の自分の中にそのことに対する何かしらの気持も湧いてくる。その当時はしてもらうことがまったくあたりまえになっていて、してもらっているという意識すらなかったことが、今になって今の自分の中に母にしてもらったんだなという気持がしみじみと湧いてくる。何か不思議な感じもした。

 認識が変わる → 気持が変わる   正しい認識  → 気持(心)が正される

 自分の内観の体験はこういう方向の体験だったような気もする。
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