内観の体験の中から Ⅲ

 内観ではたとえば母に対する自分を年代ごとに調べていくのだが、そのことに集中できなくなることがあった。いや最初の方は集中できない時間の方が多かったと思う。ある年代では、たとえば自分の自意識がとくに強くなってきたと思われる中学時代の時など、学校での友達とのこととか学校の先生のこととかいろんな記憶がよみがえり、またそれに伴って自分の中にいろいろな思いがわいてきて、本題の母に対する自分を調べるということにはなかなか集中できなかった。本題にもどってもまたすぐ意識が別のことに移ってしまう。今振り返ると最初の何日間は本題に集中する練習期間であったと言えそうだ。いろんな思いが出てきてもスッとそれを置いて本題に集中する、それがなかなかむずかしい。集中しようと思っても集中できない。そのうちにだんだんスッと本題に行くことができるようにもなってきたように思うが、この本題にスッと行くというか乗るというか、自分はまだここのところの骨がつかめたとも思えない。

 またこういうこともあった。調べている途中で本当にこんな調べ方でいいのだろうかと思って止まることがある。内観にも深い浅いがあると聞いている。何か自分の内観が浅い感じがして、やっぱ自分はふだん頭でばかり考えているから自分を深く見つめることがしにくいのだ、何か上滑りで身にしみるものがないとかいろいろ思い始める。そういうことが何度かあったように思う。途中、内観のしかたという内容のテープを聞いた時、自分の内観が深いのかな浅いのかなと思うこと自体本筋でない、その時すでに内観から離れているのだなと思い、それが自分の節目にもなったように思う。内観(調べること)に集中する、本当に集中していたらいろんな思いも出てこないと思うが、たとえ何かの思いが出てきてもそれを置いてスッと本筋に戻れるというか乗れるというか、その瞬間はなかなか自分で捉えきれるものではないが、そこ(その瞬間)が要(かなめ)のような気がもする。自分の中で磨いていくところはそこの一点、と言ったら言い過ぎだろうか。聴く時も観る時も考える時も調べる時も本筋を行く・・・本筋を行く生き方・・・そこが研鑚の入り口?・・・いろいろ思う。
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