自分を知るための内観コース Ⅲ

・内観法体験のポイント
2.分けて見る(焦点を絞る)、分けて検べる

 母に対する自分、と、父に対する自分を、分けて検べる
 妻に対する自分、と、子に対する自分を、分けて検べる

 自分が育ってきた過程においては、いつの時代でも周囲には祖父母両親兄弟妻子友人知人同僚上司などなど、自分と何らかの関係がある人達がいた。同じ時代でも父に対する自分もいれば、母に対する自分もおり、妻に対する自分もいれば、子に対する自分もいる。母に対する自分の気持態度と子に対する自分の気持態度は異うというように、周囲にいる人達に対する自分の気持や態度は相手に応じて全部異っているとも言える。いろいろな人に対するいろいろな気持や態度が複雑に絡み合って、今の自分の心の状態が形成されているとも言えるのではないか。

 そういう自分の心の状態を漠然と意識するだけでなく、つぶさにその実態を検べるためにも、具体的に誰それに対する自分というように、分けて焦点を絞って検べる。ここですっきり分けて検べられない場合もある。母に対する自分を検べようとする時に、父のことが思い出されたり、わが妻の方に気が行ったり、場合によって母に対するという面が抜けて、自分の意識が、強く印象に残っている当時の事件のことに行ってしまったりとか、母に対する自分ということに焦点を当てられない場合がある。みんな関連しているのだが、その中で母に対する自分ということに焦点を当てて、そこを浮かび上がらせる。今の自分の中に残っている漠然とした印象ではなく、母に対する自分の、その時その場の具体的な行為態度気持感情思い考えを見ようとする、検べようとする。漠然と思い出すのではなく、分けて、焦点を絞り、検べる。そういう態度姿勢がポイントになる。

 身近な人ひとりひとりに対する自分を検べていくなかで、自分の実態、自分の周囲の人達に対するあり様も浮かび上がってくる。例えば、いかに自分が自己中心的でわがままであったか、誰に対しても、というように。
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自分を知るための内観コース Ⅱ

・内観法体験のポイント
1.母のことを検べるのではなく、自分に目を向けて、自分を検べること
 
 母は、こんなだった、あんなだった、こういう人だった、ということを検べるのではなく、母に対する自分に目を向けて検べる。母に対する自分がどうであったか、自分の行為態度気持ち感情思い考えの方を検べる。
 
 この場合、「母はこういう人だった」というような母に対して自分が抱いているイメージが、それこそ自分のイメージであって、実際の母とは別だということの自覚のある人は、最初から自分の方に目を向けられるが、そういう自覚が薄く「実際母はこういう人だった」というように強く思いこんでいる人は、なかなか自分の方に目が向かない。とくにうらみつらみとか、あるいは強い尊敬の念とか、そういう強い感情が伴っている場合、相手の方ばかり見てしまう。そういう場合でも、その人がいかにして自分に目を向けるか、あるいは、いかにしてその人が自分に目を向けるように仕向けるか、そんなあたりが、最初の段階でのポイントになる。
 
 自分に目を向けた場合逆に、自責の念や後悔の気持とか湧いてきて、そのままの自分を見れないというようなこともある。また検べる過程で気づけたり見直せたりすることも多く、そこにいろいろな気持感情感動が伴ってくるが、そこに捉われないようにあくまで検べる方向に促す。

 自分のありのままそのままを見ようとする、検べようとする、そういう姿勢、そういう方向性が出てくるにしたがって集中の度合いも強まっていく。そこには集中しやすい環境も用意されているわけだから、あとは思う存分自分を検べることが出来る。気づきの連続というか、続々新しい発見もされるが、そこに留まらないで検べ続ける。
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自分を知るための内観コース Ⅰ

・はじめに
 <自分を知るための内観コース>が設けられてから一年以上たつ。この内観コースで採用している内観法は、具体的には吉本伊信氏が考案し、それが受け継がれて現在全国各地の内観研修所等で実践されている内観法を、ほぼそのままの形で採用して実践している。内観コースが設けられたのも、各自の暮らしに内観法を活用したいとの趣旨であったと思う。その趣旨のもとに、この間多くの人が内観コースに参加した。そうした実践を通して、内観コース(内観法の体験)の位置・役割がより一層明確になってきつつあるように思う。ここでは各自の研鑚ライフ実現という観点から、内観法を体験する時のポイントになると思われるところを整理してみたい。

・内観法とは
 内観法は、出来るだけ集中しやすい環境の中で、父母など身近な人に対する自分を、幼少の頃から年代ごとに①(自分が)世話になったこと(してもらったこと)②(自分が)して返したこと(してあげたこと)③(自分が)迷惑かけたこと、という3つのテーマで、実際にどうだったのか、何があったのかと、具体的に検べていく。
 内観法を言葉で表現すると、それだけのことだ、とも言える。

・内観法の体験
 しかしそういう内観法を体験する時の各自の体験内容(意識内容)は、それこそ多種多様、ひとりひとり全く別個のものだ。それは別個の人が別個の人生を歩んできたわけだから、当然のこととも言える。でも、各自が内観法を体験する中で、自分の人生を振り返って、見えてきたり、感じたりするあたりのことを見てみると、そこに何か共通性というか共通の方向性のようなものが感じられる。自分の成り立ち(生い立ち)に対しての感じ方とか、自分の周囲にいた(いる)人達への見方とか、生きていく方向性とか、何か生き方のベースとなる部分が、培われていく。(自分の)人生の意義を窺い知る、(自分の)人生の真実を垣間見る、何かそういう面があるように思う。

・内観法の体験は<自分を検べる体験>
 でも、それはけっして、そういう方向に誘導されたり、観念付けられたりしてのことではなく、内観法で自分を具体的に検べる過程で、自分自身の中に見たり、感じたりするものだ。内観法は、<自分を検べるための方法>だ。だから内観法の体験は、<自分を検べる体験>だとも言える。ここではそういう体験を通して各自が気付いたり見直したりする内容というよりは、むしろ内観法で<自分を検べること>そのものに焦点を当ててみたい。検べていく時の具体的なポイントと思われることを出来るだけ鮮明にしてみたい。

 また内観法で自分を検べることの中にも、やはり研鑚に繋がる要素が含まれているのではないかと思う。そこがより明確になることで、内観コースの位置・役割も一層ハッキリしてくると思う。その辺も踏まえて考えを進めていきたい。
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