自分を知るための内観コース Ⅵ

・補足 Ⅱ
 内観法で自分を検べていると、すでに何(十)年も前のことではあるが、父や母が自分に対してしてくれた具体的な世話の一つ一つが、ある種の実感(現実感)を伴って鮮明に浮かび上がってくることがある。その当時はあたりまえになっていて、何とも思わなかったことが、本当に世話になっていたんだなと、今にして気づく。父や母の一貫して変わることのなかった自分に対する心(愛)に、今にして気づくと言ってもいいかもしれない。気づくと同時に内から情(気持)も湧いて来る。その時に父や母に対する自分の見方や気持も転換するようだ。

 この時、今まで父や母の心に気がつかなかった自分を悔やんで、父や母に対して申し訳なかったと思う気持ちも湧いてくるが、同時に何か心のわだかまりが溶けて晴れ晴れとした気持を体験する。そういう体験を持つ人も多い。一つの気づきに伴うこういう体験は体験として、その人にとってとても大きな意味があると思う。ただ、それも検べる過程での、その時の気づき、その時の体験であるということは押さえておきたいところだ。それを自分は気づけた何か特別な体験をしたと思い込む、そういうある種の慢心に捉われていると、必ずや実際面での齟齬をきたし、晴れ晴れしたと思い込んでいる心に、いつか陰がさしてくる。

 内観法の創始者吉本伊信氏も、そういう慢心を戒めて、あくまで内観し続ける(検べ続ける)ことを強調している。内観法は、あくまで内観する生き方、検べ続ける生き方を、人の心に促すものだ。
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自分を知るための内観コース Ⅴ

・内観法体験(自分を検べる体験)における三つのポイント

1.母のことを検べるのではなく、自分に目を向けて、自分を検べる

2.分けて見る(焦点を絞る)、たとえば<母に対する自分>に焦点を絞る(当てる) 

3.<母に対する自分>を、三つの観点(テーマ)に分けて、また年代ごとに分けて、具体的な事実を、一つ一つ検べる

 このようにポイントになると思われる点を挙げてみると、内容的には、最初に書いた内観法の説明の繰り返しのような感じもするが、内観法の中には、やはり分けて見る、分けて検べるという要素(契機)が仕組まれていて、それが内観法の体験の中では大きく作用しているように思われる。検べるということが、それによって実現されると言ってもよいのではないか。内観者が内観に集中している時、内観者の頭(知能)の働きが、自ずと、一つ一つ分けてそのもの(そのまま)を見ようとする、一つ一つ分けてそのもの(そのまま)を検べようとする、そういう働きになっている、と言ったら言い過ぎだろうか。

 また、この分けてそのもの(そのまま)を見ようとする、分けてそのもの(そのまま)を検べようとする、という態度(姿勢)が、内観法の体験(自分を検べる体験)を通して培われ、繋がっていくと思われる。

・補足について
 補足においては内観法体験における注意点をあげた。またそれが内観法の補足説明にもなるかと思う。

・補足 Ⅰ
 最初、①してもらったこと(世話になったこと)②して返したこと(してあげたこと③迷惑かけたこと、という三つの観点(テーマ)にすんなりと入っていけない人がいる。世話になるってどういうことなのか、とか、迷惑かけるとはどういうことか、とか、考えてしまう。それはそれで、そういうテーマもあるかと思うし、また何故この三つの観点が採用されているのか、そういうことも究明されていく余地はあると思う。

 しかし内観法を体験してみようとする場合、この三つの観点については、最初はまず、ごく常識的な意味で受け取ったらいいのではないか。例えば、①母に世話になったことは小遣いもらったこと、②してあげたことは買いものに行ったこと、③迷惑かけたことは毎日おねしょしていたこと、とかいうように。内観法は小学生でも体験できる。小学生の場合三つの観点でそういう具体的なことを一つ一つ見つめるだけで、両親から受けている世話(愛?)に気づく、そういうケースも多いようだ。

 自分を見る検べるといっても、いろいろな面があり、自分の行為態度気持感情思い考えというように、いろいろある。自分のした行為を見ていたら、自ずと、その時の自分の態度気持に目が向き、さらに見方考えかたに目が向くといった方向性はあるようだ。自分を検べているうちに、自分のその時の心(の状態)がくっきりと見えてくることがある。同時に自分に対しての母の心も感じられてくる。子供の場合でも、思いとか考えとか意識化される部分は当然少ないにしても、この三つの観点で自分を見ようとすることで、自分の心にも、そしてまた母の心にも目が向くのではないか。

 検べる時、最初は、自分が母に世話になったと思われる事柄をいくつかあげてみても、世話になったという実感はあまり湧いてこない。しかしその事柄(場面)を一つ一つ見ようとする中で、事柄でないものに目が向く瞬間があるようだ。どういう作用かよく分からないが、やはり自分を検べようとする、その人の意欲が元にあってのことなのだろうと思う。自分を検べようとする意欲、姿勢があれば、誰でも自分の心に行き着く。そしてまた、母の心の存在が、感じられてくる。そんな方向性があるようだ。
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自分を知るための内観コース Ⅳ

・内観法体験のポイント
3.三つの観点(テーマ)で、分けて、具体的な事実を、一つ一つ検べる

 たとえば母に対する自分を、①(自分が)してもらったこと(世話になったこと)②(自分が)して返したこと(してあげたこと)③(自分が)迷惑かけたこと、という三つの観点で、分けて、具体的な事実を、一つ一つ検べる。

 たとえば小学校の頃というように時代を区切って、その間のことについて、まず①自分が母にしてもらったことは何かなと、(記憶を蘇らせたり、当時の状況などからの類推なども織りまぜながら)具体的な事実を検べる。こんなこともしてもらった、あんなこともしてもらったと具体的な事実(場面)を一つ一つ見ようとする。漠然とした印象にとどまらないで、一つ一つを今の自分の中に出来るだけ鮮明にうかび上がらせる。
 
 ①の観点で小学校時代について検べたら、次に②の観点に移り、小学校時代に自分が母にしてあげたことは何かなと、具体的な事実を検べる。ここでも一つ一つ検べる。②の観点で小学校時代について検べたら、次に③の観点に移り、小学校時代に自分が母に迷惑をかけたことは何かなと、具体的な事実を検べる。
 
 三つの観点で分けて一つ一つ検べることで、母に対する自分の姿が鮮明に浮かび上がってくる。例えば、母から自分はしてもらったことばかりで、自分から母にしてあげたことはほとんどない、かえって迷惑ばかりかけていた、そういう自分の姿が浮かび上がってくる。そういう自分に改めて気づく。

 ①の観点で小学校時代の自分を検べる、次に②の観点で小学校時代の自分を検べる、次に③の観点で小学校時代の自分を検べる。分けて順番に検べていくという、この過程を取り違えて、その時代の経過(事柄)を追いながら一つの事実(場面)に同時に三つの観点を入れて検べようとすると、その時の自分の姿はそれなりに見えてくるかもしれないが、母に対する自分の姿(位置?)が鮮明に浮かび上がってくるということにはならないようだ。

 物事を分けて、一つ一つ見る、検べる、そうすることで、漠然としていた全体が鮮明に浮かび上がってくる、そこには何か理があるように思われる。
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自分を知るための内観コース Ⅲ

・内観法体験のポイント
2.分けて見る(焦点を絞る)、分けて検べる

 母に対する自分、と、父に対する自分を、分けて検べる
 妻に対する自分、と、子に対する自分を、分けて検べる

 自分が育ってきた過程においては、いつの時代でも周囲には祖父母両親兄弟妻子友人知人同僚上司などなど、自分と何らかの関係がある人達がいた。同じ時代でも父に対する自分もいれば、母に対する自分もおり、妻に対する自分もいれば、子に対する自分もいる。母に対する自分の気持態度と子に対する自分の気持態度は異うというように、周囲にいる人達に対する自分の気持や態度は相手に応じて全部異っているとも言える。いろいろな人に対するいろいろな気持や態度が複雑に絡み合って、今の自分の心の状態が形成されているとも言えるのではないか。

 そういう自分の心の状態を漠然と意識するだけでなく、つぶさにその実態を検べるためにも、具体的に誰それに対する自分というように、分けて焦点を絞って検べる。ここですっきり分けて検べられない場合もある。母に対する自分を検べようとする時に、父のことが思い出されたり、わが妻の方に気が行ったり、場合によって母に対するという面が抜けて、自分の意識が、強く印象に残っている当時の事件のことに行ってしまったりとか、母に対する自分ということに焦点を当てられない場合がある。みんな関連しているのだが、その中で母に対する自分ということに焦点を当てて、そこを浮かび上がらせる。今の自分の中に残っている漠然とした印象ではなく、母に対する自分の、その時その場の具体的な行為態度気持感情思い考えを見ようとする、検べようとする。漠然と思い出すのではなく、分けて、焦点を絞り、検べる。そういう態度姿勢がポイントになる。

 身近な人ひとりひとりに対する自分を検べていくなかで、自分の実態、自分の周囲の人達に対するあり様も浮かび上がってくる。例えば、いかに自分が自己中心的でわがままであったか、誰に対しても、というように。
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自分を知るための内観コース Ⅱ

・内観法体験のポイント
1.母のことを検べるのではなく、自分に目を向けて、自分を検べること
 
 母は、こんなだった、あんなだった、こういう人だった、ということを検べるのではなく、母に対する自分に目を向けて検べる。母に対する自分がどうであったか、自分の行為態度気持ち感情思い考えの方を検べる。
 
 この場合、「母はこういう人だった」というような母に対して自分が抱いているイメージが、それこそ自分のイメージであって、実際の母とは別だということの自覚のある人は、最初から自分の方に目を向けられるが、そういう自覚が薄く「実際母はこういう人だった」というように強く思いこんでいる人は、なかなか自分の方に目が向かない。とくにうらみつらみとか、あるいは強い尊敬の念とか、そういう強い感情が伴っている場合、相手の方ばかり見てしまう。そういう場合でも、その人がいかにして自分に目を向けるか、あるいは、いかにしてその人が自分に目を向けるように仕向けるか、そんなあたりが、最初の段階でのポイントになる。
 
 自分に目を向けた場合逆に、自責の念や後悔の気持とか湧いてきて、そのままの自分を見れないというようなこともある。また検べる過程で気づけたり見直せたりすることも多く、そこにいろいろな気持感情感動が伴ってくるが、そこに捉われないようにあくまで検べる方向に促す。

 自分のありのままそのままを見ようとする、検べようとする、そういう姿勢、そういう方向性が出てくるにしたがって集中の度合いも強まっていく。そこには集中しやすい環境も用意されているわけだから、あとは思う存分自分を検べることが出来る。気づきの連続というか、続々新しい発見もされるが、そこに留まらないで検べ続ける。
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