人の中身について話そう

・・・というと、なんだか、うわさ話をするようで、あまりイメージが良くないかもしれないが、これは、類推・憶測・疑い・勘ぐり等ではなく、「その人の中身の実際」を見ようとするもの。

<人の中身 主体の文化へ>
例えば、私は○○は苦手だ、○○が得意だ、○○がやりたい、と思って言ったとしても、そう思っているから、そう言ってたから、「実際にそうだ」とは限らないもので、その人の実際はどうだろうか。
「ウソ」か「本心」かという問題ではなく、心底そう思っているとしても、「その人の実際はどうだろうか」というもの。

私は気づいた、目覚めた、悟った、神の声を聞いた・・・等も、それを否定するものでなく、その人の体験や思いを言っているのだろうから、それはそれとして、・・・で、その人の中身の実際はどうか。
その人の体験や行為行動や言ったこと書いたもの等、現象面はどうあろうとも、その人の中身の実際はどうか。
(結果や効果、現象面の話だけでコロリといく、現象面に弱い人が多い)

「その人の中身の実際」を見るということは、見ようとしたからといって、すぐに見れるものでもないだろう。
そのような文化というか価値観というか、そういう環境の中で、人の中身に興味・関心が湧き、感覚が養われ、見る目が育つのだと思う。

職場にも家庭にも社会そのものに、そういう文化を育てたい。



<真の幸福観へつながる道>
現象面はどうでもいいということではない。
現象面の変化や経過・結果をよく見て、そこから、中身はどんなだろうかと、中身(核心・本質)を見ようとするもの。

間違いを指摘したりして、いくら正しきを目指しても、現象面をとやかく言っている間はね・・・。

子育て(人育て)に関わる人は、中身を見る目を養わないと、現象面で一喜一憂する人を作るばかりになると思う。
幸福感を追う感人種にはなって欲しくないと思いながらも、人が喜んでいたら「良かったね」、がっかりしていたら「残念だったね」、では、「人の中身を見る目」も「中身主体の文化」も育たないだろう。

これは、センジ詰めると、その人の「幸福観」のことでもある。
私が本当に幸福だと思えたら、実際に幸福なのか、どうか。
その人が幸福だと思えたら、それで幸福なのか、どうか。

自分を観察し、自分の中身を見ようとすると、
自然と、人の中身に、社会の中身に、関心が向いてくる。
中身に関心が出てくると、やはり、本当の現象、現象面を正しくするには、中身を正しく・・・という、やりどころが見えてくると思う。


<現状の価値観の自覚から>
現象面主体の価値観で長年やってきていると、そう簡単に切り替わるものではないが、先ずは、自分の現状の価値観、現象面主体の価値観をハッキリと自覚することだと思う。

自分や人の言動、いろいろの出来事に対して、即座に反応している自分の実状が見えてくると、徐々に、現象面ではなく、「その中身はどうなんだろう」と中身の方へ関心が向いていくと思う。

そして、「中身はどうなんだろう」「中身はどうなんだろう」と主体や重点が中身へ向かえば向かうほど、観念や感情で現象面に対して即座に反応することが少なくなり、冷静に受け止めて、じっくりと見たり聞いたりできるようになってくる。
あえて意識しなくても、自分に言い聞かせたりしなくても、「良いとも悪いとも云えない自分」、「人の言動や出来事に一喜一憂しない自分」ができてくる。

先ずは、そういう自分たちに成り合って、職場や家庭や日常会話でも、人の中身について語り合おう。
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