感覚・・・

感覚という観点で調べてみると、日常生活の殆どが、自分の感覚で判断し行動していることが分かる。
何を食べようかとか、どれくらいの量にしておこうかとか、エアコン使おうかとか、設定温度下げようかとか、・・・
また、緻密に費用計算して、それだけの費用をかけてやるか、やらないか、の判断も結局は感覚。「費用」対「効果」なんて言うけど、比べられないものを比べて、やっぱり最後は感覚。
近い方の道を行くために、距離を測って決定するというのは感覚ではないけど、「近い方を行く」という出どころは感覚。

感覚で判断・行動している、感覚に重点を置いている、ということを間違いとか、おかしいと言っているんじゃなくて、こういう事実・実態を知るというか、もっと、もっと認識することかと思う。
随分、確信もったり、絶対間違いないとか、絶対おかしいとか、変だとか、良かったとか、・・・凡てと言ってもいいくらいに、その人の感覚ではないか、とも思う。
こう思うのも、私の感覚。
となると・・・、・・・・・・ つづく
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今夜は・・・

明日に備えてという訳ではないけど、今日は幸福研に行かなかった。
幸福研には各地から、いろんな面々が参加してるとのこと。賑やかで、楽しそう。

研鑽体得予科課程前夜
 なぜ、研鑽、研鑽と、そんなに研鑽にこだわるのかと、自問。
 研鑽の言葉は数え切れない程、使ってきたけど、
 研鑽よりも、信じて事を行なう方に力を入れていたのではないか。
 見映えや現象面の効果を望んでいる体質か。
 なぜ、それではいけないのか。なぜ、研鑽なのか。

 やはり、人間の傲慢さ、人間が設けた価値観・善悪・規範・道徳・法律・などでは、絶対に人間同士仲良くなれない、争いが絶えない。

 まず、人間が人間を知る(自分が自分を知る)。人間の存在・位置・役割り・能力・成り立ちを知って(自覚して)、人間らしく生きる。

 それには、今までの人間のように、人間の考えを振り回していてはダメだ。
 人間は人間自らを知って、これでいいのだろうか、間違っているのではないだろうかと、絶えず人と共に見直し見直し、正しく生きて行こうするところに、人間らしさが顕われるのではないだろうか。
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あしたから・・・研鑽体得・・・

「盲信」って自覚のないもののことらしい。
信じ込み、思い込み、キメツケ、自覚のない「自己盲信」

客観に立ってこそ自覚が生まれる。事実を見る聞く=「客観」 自分を客観する。
それには、自分の思い、気持ち、感情など、そのまま出して捉えてみる。
客観しようとして、自分の思い・気持ち・感情など、いけないものとして引っ込める人がいる。ますます、自分が見えない。

朝起きる時も何か信じていないか、食事をする時も何か信じていないか、テレビを見る時も何か信じていないか、楽しい時、嬉しい時、面白い時、感動する時、何か信じていないか、・・・
信じている状態は、固定キメツケがベースにある。より本当を指向する考えが止まっている。

研鑽生活していますか?
「いいえ、してません。」 これこそ最も頑固、自己盲信、自信過剰・・・。
盲信生活していますか?
「・・・・」

やはり、自分に自信があるから、自分で考えて自分で行動してるんだと思う。
研鑽は、人と話をする等の形ではない。その人の内面のこと。
研鑽がないのは、その人の自分に対する自信の現われだと思う。
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研鑽をしようとして・・・

暮らしや職場の仕事でも、より本当を目指して、前進して行こうとして、寄って話し合う機会を設けたり・・・、

そこで、研鑽になるか、どうか・・・。
やはり、やろうとしていることの目的は何か、そして、そのやろうとしていることが目的にかなった手段・方法か、どうか・・・、

いつも、いつも、焦点が、ここにあるか、どうか。
何かことをやろうとして、やり始めると、「やる」ということが前提になって、そうすると次から次へと前提が増えていって、「あれがある」「これもある」「その上でどうしたらいいか?」などなど、で研鑽しているつもりになる。

殆どが決めた前提の上に乗っかって、極々狭い範囲を右往左往、苦心する。
「あれもやめられる」「これもやめられる」「そしたら、あれも、これも、みんなできる」

自分の中にある前提だけでなく、みんなで前提を持ってるから、前提を持っていることに気付かない。無自覚。
固定・前提・キメツケ・常識化しているもの(盲信)に気付く研鑽。
先ずは、研鑽の目標をそこに置いて研鑽会する。

いつもいつも、ああしたらどうか、これはどうしようか、と考え行なう中にも、「前提を持っていないだろうか」「決めて外せないとしているものはないだろうか」と、それの発見のために、みんな寄っての「話し合い研鑽」。

そうやってみて、「これも外せない」「あれも動かせない」「ああ、これも決めてるなぁ」「受けたんだからやらなきゃ」「約束したから相手に迷惑かかる」等々、キメツケ・盲信の実態を続々発見するための暮らし。研鑽会。
研鑽生活になろう筈がない盲信生活の実態を自覚する。楽しい。愉快。
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研鑽が実現したら・・・

どうなるか、ということは、研鑽を実現したら分かることで、
研鑽を実現しないままで、「どうなるか」を論じてもね。

研鑽ということには惹かれるけど、研鑽って何なのか、研鑽が実現しているのか実現していないのか、分からない。
と、このままでは何も進まないから、やはり、研鑽状態と、そうでない状態ということも、ある意味で必要かな、とも思う。

研鑽状態とは、キメツケなく、本当はどうか、と考え行動している状態。
・・・と、これは誰でも知ってるね。「わかってる!!」というヤツだ。
・・・で、「どうなるの?」と現象面への現われを知りたがる。結果主義というヤツだ。
研鑽状態か、どうか、「現象面に現れる筈だ」と、自分が現象面しか見えないものだから、なんとか現象面で判別しようとする。
でも・・・、研鑽状態は、研鑽があるか、ないか、で、現象面のことではないですから、ザンネーン!!

まあ、あえて言うなら、「新しい発想がドンドン生まれる」「間違いが続々と発見される」「現象面はコロコロと変貌する」・・・etc.
まあ、研鑽あれば、この程度の現われはあると思うけど、
こういう現象あれば、研鑽あるかと言えば、そうじゃない・・・と、逆は言えないから、現象から見ようとする人には研鑽あるか、ないか、見えない、ザンネーン・・・。
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