内観の体験の中から Ⅱ

 母に対する自分ということで自分の高校時代から大学に入るころのことを調べていた時、浪人して予備校に一年間通ったが、自分の記憶には残っていないにしても一年間の予備校の費用も母に出してもらったんだな、金額はまったく覚えてないけどそんなに安いものではなかったんではないかとか、また大学に受かった時も先に私立大に受かってその大学の入学金を納める期限が国立の合格発表よりも前だったので確か入学金10万円を母に出してもらって納めた記憶があるなとか思っていると、それだけでもああそういうことも母がしてくれたんだなという思いがわいてくる。さらにそのことを見つめていると、フッとお金ではない、お金にはかえられないものを感じてくる。ずっとそれ以前の母が育ててくれた過程を調べてきたあとなのでなおさら身にしみてくるものがある。何か母の人生が子のための人生としか言いようがない、そんなふうに見えてくる。そういう母を成長するにつれて何か低く見るようになっていた自分も思い出されてやりきれない思いも出てくる。自分の中の母親像が変わっていく。我が子(自分)のためにすべてを尽くす母というふうにしか見えない。その当時の母自身の実際の意識(思い)がどんなだったかはわからない。でも子供である自分からは今そういうふうにしか見えない。

 その後我が子に対する直接の世話から離れて余生を老人会の旅行とかして楽しんでいた母、当時の自分はそんなふうに母を見ていた。もちろん我が子(自分)を心配してくれていることも感じていたが、今思うと自分のその感じ方は実に浅はかなものだったと思う。母が実際日々思うことは我が子のことばかりではなかっただろうが、その心底はやはり我が子のことで占められていたのではないか。今の自分からはそういうふうにしか見えない。父についても今までの自分はその老後を盆栽三昧の悠悠自適の余生というように思っていたが、父の心に本当に鈍感な自分だったと思う。勤め続けて家族を支えて30年にもわたって4人の我が子の成長を見守ってくれた父の心が老後に手のひらをかえしたように変わるわけがない。盆栽三昧に見える父の心底もやはり我が子のことで占められていたのではないか。今の自分からはそういうふうにしか見えない。

 子を持つ親の親心。ふと自分を振り返ってみる。我が子(娘)に対して親である自分はどれだけのことをしてきたのだろうか。自分の中にわいてくる両親に対する自分の今のイメージとは程遠い自分を感じる。我が子を愛する気持に変わりはないが、何か自分のことで精一杯になっている。でも日々の自分の思い(意識の表層)ではなく自分の心底ももっと掘り下げてみたい。今自分の中に『連綿と引き継がれていく親心』というような言葉が浮かんできている。『大愛大慈悲の現れとしての親心』『心の世界のつながり』、いろいろ言葉は浮かんでくるがその辺の実質をもっと探っていきたいものだ。

 我が子云々でなくても、ああ自分は雑踏のなかでも無意識的により若い子へ、より幼い子へと目が行くなと今ふと思った。何か自然な感じもする。
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内観の体験の中から

 内観というものを体験したように思うが、内観そのものがどういうものかということについては、もちろん自分にはまだまだ語れないし、実際それが本当の内観になっていたかどうかも危ういものだが、何かとても面白い体験だったことは確かだ。

 たとえば母に対する自分を小学校低学年までの間について調べる時、まずその頃についての自分の記憶をたどっていくことになる。もう四五十年も前のことなので最初は断片的ないくつかの場面が浮かんでくるぐらいだ。もう少し集中するとさらにいくつかの場面が思い出される。また具体的な場面に伴ってその当時の自分の気持というか心の状態が思い出される。座った母のひざにのって抱かれている場面には今の自分の中にもなつかしさがわいてくるのだが、母に抱かれている当時の子供の自分の中にも母のぬくもりを感じての安心感のようなもが観えてくる。でも記憶には限界がある。それに今の自分の中に出てくる記憶は今の自分の思いにすぎないとも言える。自分の思いの中での作り話とも言えないこともない。調べると言っても自分の中で自分の思いをあれこれとめぐらしているということになる。

 今度は自分の記憶から少し離れて、実際どうだったかを調べようとする。記憶になくても、自分が母のおなかから出てきて、最初は夜中でも母を起こしておっぱいを飲ましてもらったとか、オムツをかえてもらったとかいう事実は否定できない。そんなことをあれこれ(頭で)考えていると、ああこういうことも実際あったのかなとかいうようなことが浮かんでくる。たとえば母の背中におぶってもらっている場面というか感覚というか、夜中におねしょをして布団をぬらした場面というか感覚というか、そういうものが浮かんできて、ただああいうこともあったはずだ、こういうこともあったはずだと頭だけで考えていた時よりも身にしみてくる。でも本当にあったようなないような何か本当にかすかなものだ。そういうのが自分の記憶に加わってくる。でもそれも今の自分の中に出てきている思いに過ぎないとも言えるから、実際はどうだったのかということは残る。

 ただそうこうしているうちに、記憶にはなくても、ああ自分は母に生んでもらったんだなとか、オムツを替えてもらったり、おっぱいの飲ましてもらったりと、生まれてから本当にいろいろお世話になったんだなとか、何か身にしみてくるものがある。母の心に触れる思いがする。

 思い出したり、実際はどうだったのかとかと調べるなかで、最初具体的な場面とか母の姿とかそういう形というか現象面が顕れて、そこからまた母の心や自分の気持が浮かんでくる。こういう体験の中から、形(現象)と心が一つに絡み合っているようにも思えてくる。現象と心の世界を分けて考えていくことも大事だが、本来現象と心の世界は一つのものだという気もしてくる。今まで心の世界を現象の奥に探ろうとしてきたが、心の世界が現象のすみずみまで染み込んでいる、さらには現象が心の世界に包まれているという観方も出来るのではないか。
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