内観の体験の中から

 内観というものを体験したように思うが、内観そのものがどういうものかということについては、もちろん自分にはまだまだ語れないし、実際それが本当の内観になっていたかどうかも危ういものだが、何かとても面白い体験だったことは確かだ。

 たとえば母に対する自分を小学校低学年までの間について調べる時、まずその頃についての自分の記憶をたどっていくことになる。もう四五十年も前のことなので最初は断片的ないくつかの場面が浮かんでくるぐらいだ。もう少し集中するとさらにいくつかの場面が思い出される。また具体的な場面に伴ってその当時の自分の気持というか心の状態が思い出される。座った母のひざにのって抱かれている場面には今の自分の中にもなつかしさがわいてくるのだが、母に抱かれている当時の子供の自分の中にも母のぬくもりを感じての安心感のようなもが観えてくる。でも記憶には限界がある。それに今の自分の中に出てくる記憶は今の自分の思いにすぎないとも言える。自分の思いの中での作り話とも言えないこともない。調べると言っても自分の中で自分の思いをあれこれとめぐらしているということになる。

 今度は自分の記憶から少し離れて、実際どうだったかを調べようとする。記憶になくても、自分が母のおなかから出てきて、最初は夜中でも母を起こしておっぱいを飲ましてもらったとか、オムツをかえてもらったとかいう事実は否定できない。そんなことをあれこれ(頭で)考えていると、ああこういうことも実際あったのかなとかいうようなことが浮かんでくる。たとえば母の背中におぶってもらっている場面というか感覚というか、夜中におねしょをして布団をぬらした場面というか感覚というか、そういうものが浮かんできて、ただああいうこともあったはずだ、こういうこともあったはずだと頭だけで考えていた時よりも身にしみてくる。でも本当にあったようなないような何か本当にかすかなものだ。そういうのが自分の記憶に加わってくる。でもそれも今の自分の中に出てきている思いに過ぎないとも言えるから、実際はどうだったのかということは残る。

 ただそうこうしているうちに、記憶にはなくても、ああ自分は母に生んでもらったんだなとか、オムツを替えてもらったり、おっぱいの飲ましてもらったりと、生まれてから本当にいろいろお世話になったんだなとか、何か身にしみてくるものがある。母の心に触れる思いがする。

 思い出したり、実際はどうだったのかとかと調べるなかで、最初具体的な場面とか母の姿とかそういう形というか現象面が顕れて、そこからまた母の心や自分の気持が浮かんでくる。こういう体験の中から、形(現象)と心が一つに絡み合っているようにも思えてくる。現象と心の世界を分けて考えていくことも大事だが、本来現象と心の世界は一つのものだという気もしてくる。今まで心の世界を現象の奥に探ろうとしてきたが、心の世界が現象のすみずみまで染み込んでいる、さらには現象が心の世界に包まれているという観方も出来るのではないか。
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