④観点というもの

 内観の中での観点というのは、自分を観て検べるための手がかりだと捉えると、その人が自分のことを検べられるなら、どんな観点(言葉)を持ってきてもよいと言えるのではないか。言ってみれば、その観点を手がかりにして、自分のことを観て検べられたら、その観点はその人にとって適切だったと言えるのではないか。

 内観コースの中で、「人の話に対して、自分はどういう聞き方をしているのか」という観点で自分を検べてみた人が今までに何人かいる。でもこの観点はいささか高度(?)のような気がする。本題に直接入っていくという感じで、最初からこういう観点で自分に問うことができたらいいが、こういう観点ではピンと来ないという人もいると思う。
 
 今回の内観コースでは「人の話を聞けない自分(を探す)」という観点で自分を検べた人がいる。内観コースに参加する前に奥さんに「あんたは人の話を全然聞けない」との指摘を受けたようで、その辺を検べてみたいということであった。最初は「聞けない自分」の実例をなかなか見つけられないようであったが、繰り返し検べるうちに実例が次々と出てきた。奥さんの指摘を受けたときには「そう言われてみればそうかな」ぐらいの思い方だったのが、いくつもの「聞けない自分」の実例を前にして、「聞けない自分」のことが身に沁みて感じられてくる。そこから自ずと「自分はどういう聞き方をしているのか、自分の中はどうなっているのか」という問い(観点)がその人の中に出てくる。自分の実状を思い知ることで自分を検べる意欲も出てくる。そこから本題に入っていく。

 ある意味では「聞けない自分」という観点で自分を観るのはしんどいことかもしれない。でも「聞けない自分」を探すことでいくつもの実例が出始めると探す面白みも出てくるように思う。そして、自分の中から「自分はどういう聞き方をしているのか、自分の中はどうなっているのか」という問い(観点)が出て来る頃には、そろそろ検べる面白みというのも感じ始めて来るようだ。自分を検べる面白みがなければ、何を好き好んで・・・

・「自分の聞き方」というより「聞けない自分」という観点での方が、自分を捉えやすいように思う。「聞けない自分」の中には、反応として何かしらの気持や感情の起伏が起こることが多い。そういう反応は(どういう内容のものかということは別にしても)意識されやすいから、それが「聞けない自分」を探す手がかりになるような気もする。
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