内観にみる人間観6

 嘘ということについて考えてみて、常識的な意味を超えて少し拡大解釈になったきらいもあるが、やはり、心のうちに嘘があるということは、正常でない、本当でない、真実でないものを感じる。

 しかも嘘というのは、人との関わり、ひいては社会関連の中で発生するものといえそうだ。対人的心の持ち方(意識構造)といってもいいかもしれない。嘘というのは、その人のテーマだといえるが、人との関わり(社会関連)のテーマでもある。人との関わりの中に嘘がある、何か正常でないものがあるといってもよさそうだ。

 内観法の三つのテーマと<嘘と盗み>や<養育費の計算>のテーマはどれも、自分を知るために用意されているテーマだ。でも内観で<自分を知る>というときの<自分(人)>とは決して他(周囲の人や社会)から切り離されたものではないということに改めて着目したい。身近な人に対する自分(人)を調べることで、人との関わりの中にある自分(人)を知る、またそのことを通して、他の人の存在を改めて感じる。人(自分)と人の切ることのできない繋がりを知る。

 このように考えてくると、内観法にも、そのベースとなる人間観というものがあるように思えてくる。いや、人というものをどう捉えるか、人という存在をどう見るか、そういう人間観があってこそ、それに基づいて内観法が考案されたともいえるのではないか。人というものを決して個別的な存在とは見ない、そういう人間観といったらいいだろうか。(人を人から切り離された個別的存在と見る間違った人間観から、嘘も発生しているのかもしれない。)

 内観法がそういう人間観に基づいて構成されているからこそ、内観法を体験する人の人間観も変わっていく。自分を知ることで、人(人間)を知る。人と人の切ることの出来ない真理性に基づく人間観が形成される。そこに自ずと情(人情)も湧く。そういうことかもしれない。 
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