内観にみる人間観9

 生まれたばかりの赤ん坊は自分では何もできない。だから食べることから着ることから寝ることから全部母親の世話にならなければならない。(でも母親のオッパイには自分で吸い付いて自分で飲み込む。その後の消化吸収なども自分の体内でのことで、母親の世話になるわけでもない。赤ん坊でも自分でやれることはある。)

 大きくなってスプーンでも使えるようになると、この子は自分で食事ができるようになったと言われる。でも食事を作るのは母親にやってもらわなければならない。もちろんスプーンや食器も用意してもらわなければならない。

 小学生ぐらいになると料理を覚えて自分で何か作って食べる子もいるかもしれない。でもその材料は母親に用意してもらわなけらばならない。買い物に自分で行って材料を買ってくることは出来るが、その場合でもお金は母親に用意してもらわなけらばならない。またお店に物(食材)が用意されていなければならない。その食材を作ってくれた人もいて、それをお店まで運んでくれた人もいるはずだ。自分で何か作って食べたといっても、それを自分がやる場合でも、どれだけ多くの人の世話を受けているか計り知れない。

 こういう話はきりがない。人が食べるということを例えであげたが、食べることばかりでなく着ることや住むこと、その他学校で勉強したり、社会に出て何かの仕事に付いたりする場合でも、自分ひとりでは何も出来ないということだ。周囲(の人や社会)から受けていることに比べたら、自分のやれることは極わずかだ。

 スプーンを使えるようになった。料理が出来るようになった。買い物ができるようになった。仕事して金を稼げるようになった。お金を貯めて自分の家を建てることが出来たなどといっても、自分ひとりでは何もできないということには変わりない。自分が家を建てたなどとえらそうに言っても、大工さんがいなければ家は建たない。自分で大工仕事して建てる場合もあるだろうが、家を建てる材料は自分で作ったわけでもないだろう。山から木を切り出して材料を自分で用意したつもりでも、木は自然がもたらしてくれたものだ。

 大人になって自分が何かやれるようになったなどと思っていても、自分に関わりを持ち、多くのものを齎してくれる周囲の世界(自然や人や社会)に目をやると、その広大無辺の拡がりに驚かされる。どんなに目を凝らしても見通すことは出来ないし、どんなに思いをめぐしても、そんな思い(想像)の及ぶはずもない。

 生まれたばかりの赤ん坊も、成長したかに思われる大人も、自分の周囲に拡がる広大無辺の世界の中では、ほとんどすべてのことを受けて生かされているということにおいて五十歩百歩だ。大人になって自立できたとか自活しているなどとは、恥ずかしくて言えるものではないだろう。

 内観では、自分の人生において、実際自分が周囲から受けたことを、一つ一つ具体的に思い出して、そこを観て確認する。思い出すことは自分が受けたこと(もの)の総体から言えばほんの微小部分であるかもしれないが、内観に真剣に取り組むことで、受けていることの認識と自覚に至る。自分の周囲に拡がる想像の及ばない世界を知ると同時に、自分という存在の位置を思い知る。今まで膨らんで大きくなっていた思い(自分)も自ずと小さくなっていくようだ。 
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内観にみる人間観8(人間観というもの)

 乳幼児は親に依存して(頼って)生きる。生きていくためには親にほとんどすべてのことを世話してもらわなければならない。また、はいはいして動き回ることが出来るようになると、親の方に寄っていく。抱かれると喜ぶ。満足げな様子である。抱かれると嫌がるときもあるだろうが、やっぱ親が近くにいると安心しているようだ。親がいなくなると不安になって泣く。

 子にとって親は、共にいると安心できる存在、いろいろ世話されることで満足を与えてくれる存在と言ってもいいかもしれない。子が自ら親の方に近寄って行ったり、親がいなくなると泣いたりするところを見ると、その子は、親が自分にとってどういう存在であるかを知っていると言えるのではないか。言ってみれば、その子は、親を安心できる存在、満足を与えてくれる存在と観ているということだ。

 ちょっと奇異に聞こえるかもしれないが、その子が、そういう親(人間)観を持っているとは言えないだろうか。意識はされてはいないだろうが、その子のベースにそういう人間観(親観)がある、ないしはその時にはそういう人間観が形成されつつあるとも言えるのではないか。その後の成長過程でいろいろ変化はするだろうが。

 大人になっても誰の中にも人間観というものがあるのだと思う。自分にとって人(自分と他人)というのはどういう存在なのか、自分は人をどう観ているのか、そういう人間観が、自分に意識されているかどうかにかかわらず、自分の中にはあるようだ。

 人間というものをどう捉えるか、どう観るかという人間観はいろいろな観点で言えることだと思うが、存在という観点から観て、人を個別に存在すると観るのか、一つに繋がって(溶け合って)存在すると観るのか、これも人間観の違いと言えるだろう。

 内観法は、内観者が、存在という観点から自分(人)を観ていく、そして内観者の中に、存在という観点からの人間観が形成されていく、そのように仕組まれているような気もする。

 人に対する自分を観るということは、人との関わり方を観るということだ。人との関わり方とは、自分の存在の仕方といってもいい。すべてを受けて存在している、決して個別には存在できない。そういう存在の仕方。自分の存在の仕方を知ることで、人の存在の仕方を知る。人と人が一つに繋がった存在の仕方を知る。そこに新たに形成されてくる人間観がある。
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内観にみる人間観7

 自分を知ることで、人(人間)を知る。人と人の切ることの出来ない真理性に基づく人間観が形成される。もし内観法がこのように仕組まれていると考えられるならば、内観法を体験する人にあらわれる各種内観効果にも一貫したものがあり、それは、その人のベースにある人間観の変化・転換によるものと見ることが出来る。

 内観は人間関係におけるいろいろな悩みや問題の解消に効果があると言われる。また、薬物及びアルコール依存症の一つの療法としても取り上げられ、その場合、内観療法とも呼ばれている。一方、いろいろな立場の人の自己啓発の機会ともなるようで、内観により生きる意欲や積極性の向上、生きがいの自覚、能力発揮などの効果がもたらされると言われる。そして実際非常に多くの具体的実例・実績があるということが何よりも着目に値することだ。

 何故内観がこのような効果をもたらすのか。たとえば、アルコール依存症の人が内観することで、親や周囲の人から受けたもの(愛情等)の大きさを自覚する。その自覚がアルコール依存からの解放の契機となる。そのように説明されることが多い。そこには理があるような気もする。人の本当の安心満足というのは、周囲の人からの愛情を受けることによりもたらされるともよく言われることだ。確かにアルコール依存ばかりでなく人間関係における悩みの解消や、いろいろな人のさらなる自己啓発にしても、自分が受けているものの大きさの自覚がベースになるとも言える。

 そういう捉え方は間違ってはいないと思うし、自分も今までそういう捉え方に拠っていたわけだが、もう一つ何か説明不足で、物足りない感があった。今各種内観効果は、その人のベースとなる<人間観の変化転換>によると捉えると何かしっくりくるものがある。

 自分を知る→人を知る→人の存在の仕方を知る(すべてのもの《こと》を受けていることの自覚)→人と人の切ることの出来ない繋がり(の真理性)の認識自覚→人は個別的存在ではないという人間観の形成→生き方の根本的な転換

 問題の真なる解消は、人のベースにある人間観の革命による生き方の転換によってもたらされる。

 これは自分の中に今ある<人間観>の観念から内観法を捉えた一つの解釈にすぎないが・・・人間観という言葉(概念)を自分がどう捉えているかということについては、もう少し説明を加えたほうがいいかもしれない・・ 
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内観にみる人間観6

 嘘ということについて考えてみて、常識的な意味を超えて少し拡大解釈になったきらいもあるが、やはり、心のうちに嘘があるということは、正常でない、本当でない、真実でないものを感じる。

 しかも嘘というのは、人との関わり、ひいては社会関連の中で発生するものといえそうだ。対人的心の持ち方(意識構造)といってもいいかもしれない。嘘というのは、その人のテーマだといえるが、人との関わり(社会関連)のテーマでもある。人との関わりの中に嘘がある、何か正常でないものがあるといってもよさそうだ。

 内観法の三つのテーマと<嘘と盗み>や<養育費の計算>のテーマはどれも、自分を知るために用意されているテーマだ。でも内観で<自分を知る>というときの<自分(人)>とは決して他(周囲の人や社会)から切り離されたものではないということに改めて着目したい。身近な人に対する自分(人)を調べることで、人との関わりの中にある自分(人)を知る、またそのことを通して、他の人の存在を改めて感じる。人(自分)と人の切ることのできない繋がりを知る。

 このように考えてくると、内観法にも、そのベースとなる人間観というものがあるように思えてくる。いや、人というものをどう捉えるか、人という存在をどう見るか、そういう人間観があってこそ、それに基づいて内観法が考案されたともいえるのではないか。人というものを決して個別的な存在とは見ない、そういう人間観といったらいいだろうか。(人を人から切り離された個別的存在と見る間違った人間観から、嘘も発生しているのかもしれない。)

 内観法がそういう人間観に基づいて構成されているからこそ、内観法を体験する人の人間観も変わっていく。自分を知ることで、人(人間)を知る。人と人の切ることの出来ない真理性に基づく人間観が形成される。そこに自ずと情(人情)も湧く。そういうことかもしれない。 
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内観にみる人間観5(嘘について)

 嘘ということに対する面白い解釈があった。それは、自身の具体的な実例を前にしての内観者の洞察から出てきたものだが、それを聞いて自分の受け取ったあたりをちょっと整理して、ごく単純化して表現してみると・・・

・実際でない、本当でない、ということを嘘と言うなら、人間の捉えたものは全部嘘ということになるが、そこまでは言わないにしても、自分が自分の感覚で捉えた、受け取ったという自覚なく、自分の中で「実際はこうだ、本当はこうだ」と決めて、思いをふくらませていく妄想、そして、そこから発する言動、それは嘘以外の何者でもない。こういう場合、嘘ついているという自覚がない。

・約束・規則・法律・あり方等(の観念)に縛られて、自分の実際の気持、本当の気持が見えなくなっている。自分は自分の考えや意志で何かをやっているつもりでいるが、実は自分の実際の気持、本当の気持でやっているのとは違う。自分の実際の気持や本当の気持に嘘ついている。こういう場合も嘘という自覚はない。

 嘘にもいろいろあるものだ。でも、やっぱ嘘として(嘘という観念で)捉えられる人の心(の状態)があるようだ。本当でない・真実でない心と言ってしまえば簡単だが、やっぱ自分の心のうちがどうなっているかということを、自分で自分の中に具体的に突き止めることをしないならば、嘘はなくならないだろう。嘘がなくならない限り、本当に晴れ晴れとした心、本当に晴れ晴れとした人生は実現しない。

 嘘というのは、一人の心理的負担に留まる場合もあるが、その多くは人の活動となってあらわれ、その影響は広く周囲にまで及んでいく。機構制度や組織の運営経営にまで嘘が入ると、多くの人の現実と齟齬をきたす。人の中の心理的負担の多くはそこに起因するとも言える。そういう心理的負担からまた、人の中に嘘が生まれるのだろう。
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