我執の研究②

我・我執について継続的に研究を・・・覚書メモ。

「我抜き」とか、「我を抜く」という表現がある。これは「我のある状態」から「我がない状態」に変わる、そこを意味しているのだろう。
では、「我のある状態」とは?「我がない状態」とは?そこが明確になる必要があろう。そして、「ある状態からない状態に変わるには?」の方法を考案していくという順序になろうか。

現象面を見ていると、我のある状態、ない状態は見えにくい。引っかかったり、気分が悪くなる時は、我があるのが見えやすいケースが多い。が、機嫌よくやったり、楽しくやっていたり、仲良くやっていたとしても、我がある場合も多々あるだろう。状況が変わったり、意見が違ったり、思うように行かなくなったりしたら、我があったら、すぐにそのような現象はひっくり返ってしまうだろう。
現象の元にある「我があるかどうか」に焦点が合わないと、我は見つかりにくいのだろう。
そのへんも、我の害毒や、我の抹殺と強調されても、なかなかぴんと来ない原因の一つなのかもしれない。

我・我執というものの正体はどういうものか??
「我観判断固持」という表現もあるようだが、その中身を少しずつさぐっていきたい。

人間は、五感などを通して外界の刺激・情報をキャッチし、それを概念化し、自我と言われるような脳の働きで意識を形成し、考えたり、反応したり、行動したりしているらしい。
しかし、普段の観念では、そのような実際の過程とは異なる認識過程で世界を捉え、判断し、行動しているようだ。この辺が我というものに連なる原因なのかもしれないと考え始めている。
食べたうどんが辛く感じたということがあった時に、「あのうどんは辛い」と認識する。もっとすっとぶと、「あのうどん屋のうどんは辛い」となる場合もある。
その日、その時に、そのうどんを、その人が、食べるという行為をして、その味覚を通して、「辛い」と感じた。
真保さんの理知的生活のすすめでにもあったが、自分の感覚に気づくという、感じたりする前の感覚、そこの自覚が先ずはあるかどうか。
そして、あくまで、その人が、そう感じたということ。この自覚があるかどうか。
こういう自覚がないと、辛いと感じたということが、「うどんが辛い」という、うどんそのものになったり、「あのうどん屋のうどんは辛い」という、うどん屋そのものになったりという自分の判断へ飛躍し、事実かのように固持していくことにつながるのかもしれない。
人間の感覚は、それなりに実際の面に適っている面も多々あるので、そういう作用を知り、そこを自覚するということがないと、思ったことと実際が同じだという、判断が形成されてしまうのかもしれない。そこに我の発生の元があるのかもしれない?(もう少し検べる要あり)

我がある状態とは、自分の考えが大きい状態とも言えようか。自分も一個の人間として感情も考えもあるのは、それはそれでいいのだが、それが大きくなり、あたかも自分の捉えたことが事実かのようになったり、正しいかのように思っていたりするのが我ということかもしれない。それで頑なになったり、言い張ったり・・・という現われになるのだろう。
自分が思ったり、考えたりしていることが、一個の人の中のこととして、そのまま捉えられ、他の人も同じようにそれぞれの人はそれぞれ思ったり、考えたりすることがあると、同じ重さで見れる状態・・・、そういう状態が我がない状態とも言えようか・・・。

今日はここまで。続く。
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