内観 考察メモ①

自分の過去を振り返ることで・・・

内観研修では、半畳ほどのスペースに籠もり、今までの自分を調べる。
先ずは、母に対して、年代順に、
①お世話になったこと
②して返したこと
③迷惑をかけたこと
の三項目で、調べていく。
母が終わると、その後、僕の場合は、父、兄、元の妻、みゆきの順で、この三項目で、年代順に調べていった。
その後、嘘と盗みということで、年代順に調べてみた。
その後、もう一度、母、元の妻、みゆき、父と調べて、一週間が終わった。
調べる対象などは、一人一人違う。自分に近い人を調べていく。
特に近い、父母や配偶者などは何回も調べていくようだ。

一度目、母について調べてみた時は、なかなか過去のことが思い出せず、眠くなったり、集中力が途絶えたり・・・
それでも、次第次第に集中してきて、結構色んなことを思い出し始める。
先ずは自分の印象・イメージから連想される母の姿が思い出される。口うるさい、がみがみ、時間に超厳しい、超固い・・そんな場面の数々・・・。
が、これは、母の姿の方の想起で、「内観」ではなく、「外観」ということになるらしい。
母の姿ではなく、「母に対する自分」を調べるのだと、食事時に流れるテープでの内観創始者の吉本伊信さんの話で、気付く。
「お世話になったことは?」と焦点が合い始めると、自分のイメージではなく、「実際どうだったんだろう?」と頭が働き始める。
そうなると、「そういえば・・」という感じで、実際に世話になった場面などが次々と思い浮かび始める・・・。
それだけでも、イメージで見ていた母の像が崩れ、母に対する固い気持が溶けてくるのが感じられてくる。

二度目の母に対する内観をしていると、集中力も増してきて、どんどん色んな場面がくっくり浮かんでくる。
一回目は、世話になったことというのでは、ご飯を作ってもらって、弁当も作ってもらって・・・という感じで、概念的な感じだったのが、二度目では、ご飯を作ってくれている場面がありありと見えてくる。(餃子を包んでくれているところとか、弁当の包みとか・・・)
そうなると、毎日毎日・・・こうやってご飯を、弁当を・・・作ってくれてたんだなぁ・・・。そういう中で、野球や勉強をしてたんだなぁ・・・。当時の自分は、全然そんなこと、これっぽっちも感じてなかったなぁ・・・と、観え方が変化してくる。
自分が大きかったのが、段々に小さくなるというか、どういう中に自分がいたのか、そこで自分がどんな意識だったのかが、客観的に観えてくるし、そんな当時の自分の姿を、今の自分から見てみると、情けないような、恥ずかしいような、そんな心持にもなってくる。
そして、自分がして返したことが、ほとんどまったくないという事実にも、驚くというか、愕然と気付いてしまう。そんな自分だったのか・・と。

身近な人や、嘘のことなどを調べていき、段々過去の自分の姿がくっきりと浮かび上がってくると、僕の場合、4日目の夜に、忘れていたというか、記憶の底に沈んでいたようなことが、次々と思い出されてきて、寝れなくなってしまって、夜中も内観を続けていた。
途中で、自分を見ることに対する強い抵抗感も出てくる。いやな思い出というか、忘れてしまいたいようなことが思い出されてくる。そこを見ようとするか、逃げるか・・・。面接者の人は何も言わないわけだし、自分次第。
ここは、やっておかねば・・という強い意志が出てきて、自分を見続ける。見たくない自分の姿を直視することなり、相当な疲労も覚えたが、そういう自分が素直に見れるようになり、非常に楽になる感覚。
ずっと忘れていた、というか、避けてきた、宿題のようなものを、やっと手がけられた感覚があった。そして、自分自身が背伸びしないで、そのままの自分で、楽にやっていけそうな感覚になった。
過去の記憶などで、無意識の中の、暗い世界に沈みこんでいたものが、明るい世界に引っ張り出されたような感じ。
研鑚会で検べようという意欲でも、思い出せないこと、無意識的にしまい込んでいることは出てこない場合がある。こういうことが浮かび上がってくるというのは、一つ面白い体験だった。

過去の自分を、三項目で調べていくと、実際に起こったこととが観えてくる。そのことが観えてくると、自分の印象や捉え方がはずれ、そのことから、観え方が変わり、その人に対する気持、感情も変わっていくという作用があるようだ。
また、その時の自分がどんな姿だったかが客観視できることで、自分の実態が見えてくる、そこから自分が省みられるものが大きい。

今日は、ここまで・・・。
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