「今日はついている」「運がいいぞ」ということについて

外界の様々な情報に接し、その中から法則性や規則性などの秩序を見いだそうとする傾向は、人間の脳の持つ認知的機構に組み込まれたものらしい。
しかし、この傾向を自覚しないと、自動的にこの傾向が働いてしまうが故に、実際には存在しないパターンや規則性・関連性までも見いだしてしまうことがしばしばあるようだ。

様々な情報の中から、秩序や法則性を見いだそうとする傾向は、それを実際に照らして検証していこうとする態度があれば、人間がより良く生きていく上ではとても有効・有用な能力なのだろう。(科学はそのように進歩してきたのだろう)
だが、日常の暮らしでは、そのような自覚なく、このような傾向から見いだしたものを仮説としてではなく、確立した事実として見なすことが多々あるようだ。

例えば、日常会話の中でも、よく「ついている」、「ついてない」、「運がいい」、「運が悪い」等という事を見聞きすることがある。

コイン投げの場合で考えてみよう。(20回のコインを投げる場合で)
コインの表が、四回とか、五回とか、六回も連続して出たりすると、「今日はついているな」とか、「運がいいな」とか思ったりする人も多いかもしれない。

が、確率論的には、コインを20回投げた時に、表が4回連続して出る確率は50パーセント、5回連続することも25パーセント、六回連続する確率も10パーセントあるそうだ。

六回も連続して表が出たりすると、「今日はすごく運がいい」と思ったりするが、偶然でも10パーセント(十回に一回)の割合で、そういうことが起こる訳だ。
「裏表が交互に出やすい」とか、「表裏は同程度に出やすい」という誤信から来る直観に比べて、ランダムな系列は、連続が起こりすぎているように見えることになる訳だ。
そして、そういう事態を説明するために、十回連続して表が出たりすると、とても偶然とは思えないで、「運」とか「ツキ」というような、偶然以外の原因を持ち出して、こういう超自然的な要因によって、このような「滅多に起こらない事」が起きたんだという説明をしようとする。が、十回連続lして表が出ることも偶然でも起こり得ることで(パーセントは確率論に詳しい人、ヨロシク)、運やツキの力でそうなったかどうかも検討しなければ分からないことなのだろう。
だが、偶然による出来事がどのようなものであるかについての間違った考え方(誤信)をしているので、すぐに運やツキ等の超自然的要因に起因するような思考法で考えてしまうのだろう。

よく考えてみると、「運」とか「ツキ」というのも、あるのか無いのか、どういうものかよく分からないものだろう。(分からないから、無いとも言えないのだろうが・・・)が、よく分からないものを根拠に、次の事象が起こったとは説明づけられないだろう。

コイン投げの場合、表裏がほぼ交互に出るという誤った印象のことを、統計学者は、「偏りの錯誤」と呼んでいるそうだ。同一タイプのものの偏りや連続が多過ぎるように感じられるので、そうした偏りや連続が偶然によって生じたことに過ぎないことをなかなか受け入れられないことになる。
知覚的錯誤(錯視など)と同様に、気をつけて見直そうとしても、やはり間違えてしまうようなものらしい。
こういう錯誤は、ある種の客観的な測定・検証を行わない限り、錯誤を修正することは出来ないらしい。
「偏りの錯誤」は、コイン投げの表裏の割合が、長い目で見れば一定であるという法則を、短期間の場面にも適用しようとしてしまう間違いとも言えるのかもしれない。
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