内観コースに小学生を受け入れて Ⅵ

 一方、子供にとっての内観体験をどう見るかということも、もう少し鮮明にしておきたいところだ。研鑽ライフセンターで、子供の内観を企画用意するとしたら、主眼はやはり研鑽の体得ということだと思う。いや正しくは研鑽体得の準備ということになるだろう。研鑽体得の準備として子供自身がやるべきことは、やはり自分を観る(客観視する)目を養うということだと思う。

 自分の気持や考えをそのまま(客観的に)観て捉える(自覚する)ことが研鑽の出発点だと思う。そのことの認識なくして、またそのことを外して、いくら「考えられる子に(研鑽できる子に)」と願っても知識や理屈の多い子を作るだけで、研鑽という知性の本来的な発揮は期待できないと思う。今の自分たち大人程度の人間を増産するだけだと思う。

 子供時代にいかに自分を観る目を養うかがポイントになると思う。その目的で内観法を活用する。そういう意味では現行の内観コースの形式にこだわることもない。もっといろいろな方法を考案していけるのではないか。

 教育現場においても内観法が有効であり、さらに学校に導入する必要性は古くから言われて来た。たとえば吉本(内観法創始者)は、一九七七年に愛知県高等学校生徒指導研究会名瀬地区教育相談部会主催の講演会で「高校の内観」と銘打って「内観の目的」「内観の仕方」等を教員に紹介し、特に学校に内観法を導入しようとした失敗例までも紹介している。そこで冒頭に言われたことは「昭和四十年頃、五ヶ所の学校でやって下さった。内観を専門道場並に学校でやろうとして失敗した。内観クラブとして、剣道や柔道、野球、卓球クラブのようにクラブ活動としてやっていればよかった。私が欲をかき過ぎた」とある。・・・吉本によれば内観研修所で行われている集中内観を学校現場でその形態のまま取り入れることに問題があったと言われる。(以上「中学校における日常記録内観の実践・斉藤浩一」より抜粋)

 吉本氏が「内観クラブ」ということでどのようなものを具体的に描いていたのかは、これだけの文章からは窺い知ることもできないが、内観法にはその本質を外さないでいろいろな形で活用される可能性が秘められているように思う。(続く)
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