自立した社会人⑥

自立した人というと、自発的自由意志で行動しているという要素が不可欠だと思う。
が、改めて考えてみて、自発的自由意志で行動しているとはどういう状態なのだろうか?

やる気でやっている、やりたくてやっているのが自発的自由意志だという意見がある。
が、やる気でやっているから、やりたくてやっているから、自発的自由意志と言えるのだろうか?

やる気や、やりたいという気持の元を検べてみると、すべてが自発的なものから発しているのではなく、場合によると、外発的なもの、他動的なものがあることが観えてくる。また、その外発的なやる気が、自発的なやる気と結びついている場合もあり、本人には、それが外発的なものだとは全く自覚できなくなり、自分はこれがやりたいんだと、あたかも自発的自由意志でやっていると思えるような場合もあるのだろう。

サーカスの芸などのように、ある程度の知能が発達した動物に対して、飴と鞭によって調教すると、一見とても楽しそうに芸を演じるようになったりする。
しかし、その芸を、その動物が、自発的自由意志でやっているとは言わないだろう。

人間の場合も、今の社会の中では、教育や躾、社会通念・常識、仕組みなどによって、言わば調教されたような状態の中で、いろんなことにやる気を出そうとしている状態になっているとも言えるかも知れない。
飴=お金、富、名誉、階級、誉めらる、賞賛、勝ち、上、良いとされる・・・など
鞭=貧困、不名誉、使える、貶される、非難、負け、下、悪い・・・など。
このような価値観、扱い、仕組み、などによって、様々に観念付けられて、その観念をベースに、その観念の枠内で、やりたい、やる気でやろうのような意思が生まれている場合が多いのかもしれない。

ある子が、「将来サッカーの日本代表になりたい、だって、お金持ちになれるもん!」と言っていたという話を聞いた。
お金持ちになりたいというやる気は、自発的なものだろうか?
飴がほしいばかりに、懸命に芸をこなしている動物達の姿と重なって観えてくる。

自分のやる気は、どこから来ているのだろうか?
何をしようとして、やっているのだろうか?
そういう自分のやる気の元を探っていける、自分の元を知ろうとする人になっていくと、その元が、自発的自由意志からくるものと、外発的な、他動的な、観念的なものからくるものとが、だんだんに区別がついて見えてくるのだろう。

そしてまた、飴や鞭といった外のもので動く必要がなく、純粋に、人間が持つ自発的自由意志で行動できる社会が実際にあること、そして、そういう中で人が育っていけることの大きさも、切実に思われてくる

つづく
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