②観点というもの

 洞察といっても深浅いろいろあるだろうが、
 
 内観法では、①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことの三つのテーマ(三つの観点)で、身近な人に対する自分を年代を区切って検べる。検べ方のポイントは、あくまで具体的な事(場面)を思い出すということだ。例えば母親にしてもらった具体的な事を思い出す。集中して、できるだけその事の記憶を蘇らせる。それは、過去の記憶の中の事なのだが、記憶の中の場面とそこにいる自分をよく観察することと言ってもいいだろう。

 幼少のころから今日に至るまでに自分が母親に世話になった、いくつもの場面を一つ一つ思い出していると、母親の存在というものが今までになく強く感じられてくる。母親の存在の大きさを思い、母親が世話してくれたことを当たり前のこととし、かえって不満を言い、反撥までしていた自分に気付く。

 それは、具体的なことを観察することで一つの洞察(気付き)がなされたということだ。ここで思うことは内観法では三つの観点があって、その観点で観察がなされ、検べられ、そして洞察(気付き)がなされるということだ。三つの観点があることの重要性を思う。人を洞察(気付き)に導く観点と言ったらいいだろうか。

 ある人が<嘘とごまかし>という観点で幼少のころから現在に至るまでの自分を振り返った。振り返るうちに<劣等感>という言葉が浮かんだ。「自分には劣等感があるのではないか」と思った。今度は<劣等感>という観点で自分を観察し検べた。<嘘とごまかし>という観点だけでは観えなかった自分が、<劣等感>という観点を入れることで何か観えてくるようだ。さらに<自分の内面がどうなっているか>というところまで洞察が進んでいく。

 ここで注意しなければならないことは<劣等感>という観点で自分を観るに
しても、「自分に劣等感があるのだ」と最初から決めてかからないということだ。あくまで冷静にその時のありのままを観察しようとする。もちろん頭に<劣等感>という観点があるわけだから、観えてくることもそこから観えてくるのだが・・

 観点があることで観察も進み、具体的に検べられ、洞察(気付き)もなされていくわけだが、次に、この観点というものをどう捉えるかというテーマが出てくる。 
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人生を科学する

人 間 観 | - | -

①洞察ということ

 <洞察>という言葉は、自分でも日常的にはあまり使わない。一般的にもそれほど馴染みのある言葉でもないのだろう。でも内観に関連しては自分の中にわりと出てくる言葉だ。ある内観研修所の人が<洞察>という言葉を使いながら内観の本質を語ってくれたのを思い出す。

 広辞苑には「洞察ーよく見通すこと。見抜くこと。(例)事の本質を洞察する。洞察力」とある。新明解国語辞典には「普通の人が見抜けない点までも、直観やすぐれた観察力で見抜くこと。」という説明がある。

 洞察力というのは人により能力差というものもあるかもしれないが、新明解の説明を見ての自分の中の連想だが、「普段の自分では見抜けない点までも、内観することで見抜くことができる、自分で気付くことができる」と言えそうだ。

 洞察ということは内観の中だけで行われるわけではないし、日常でもいろいろな出来事や人や社会(組織)を見るときに、人の中で行われることも多いのだろうが、内観の中では誰の中にも何かしらの洞察が行われると言えそうだ。
内観過程を、自分に対する観察から自分に対する洞察にいたる過程として捉えることもできるのではないか。

 自分を観察する→自分を検べる→自分を洞察する(自分のことを見抜く・自分のことに気付く) 
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