「今日お客が少ないのは、雨のせい?」ということについて

今日は強めの雨。お店のお客がいつもよりかなり少ない。
そんな時、「今日のお客が少ないのは、雨だからだねぇ」
そんな会話がよく聞かれる。

これによく似た発想で、いろんな現象が説明される。
・昨夜風呂に入ったら風邪をひいた。風呂がいけなかったな。
・今日は疲れた。昨日寝不足だったからなぁ。
・今年は不作だ。夏の終わりに雨が降ったからなぁ。
・あの人が気分を害したのは、自分があんなことを言ったからだ。
・・・
いくらでも例が挙げられそうだ。

お客が少ない、というのも、その人なりの受け取りということだろうが、仮に平均のお客さんの数の半分以下の人しか来ていない状況だったとしよう。
が、それがなぜ雨が原因と決められてしまうのだろう?
もちろん、雨もそういう状況が起こる一因かもしれない。
これも、実際にはどういう関係があるのか、よほど調べてみないと分からないことだろう。何となくそう思うとか、自分だったらそうだろう、という程度の根拠しかない場合が多いのだろう。
調べてみると、ある程度の相関関係は見られることかもしれないが、因果関係があるということは証明できない。(前回の項参照)
その日に客がそのような人数になるには、様々な要因が働いているのだろう。
天候の他、気温や、地域の行事、一人一人の事情、交通事情、経済事情・・・そのような要因が絡み合って、そのような状況が起きるのだろう。
もちろん、その中でも大きな要素を占めるものもあるのだろうが、それも短絡的にこうだとしてしまうと、見えなくなってしまうこともあるのだろう。

インフルエンザにかかる場合でも、インフルエンザにかかるのはインフルエンザウィルスが原因だと言われる場合もあるが、これにしても、インフルエンザウィルスがもちろん大きな要因で発病に至る場合があるのだろうが、インフルエンザウィルスが体内に入っても発病しない場合もある。ということは、インフルエンザウィルスがあるから発病する訳ではないということになるのだろう。
体調や体力や、そのウィルスへの抵抗の強さや、そして精神面の状態や気候・環境なども色々影響するのだろう。
そのような複雑な要素が絡み合って発病したりするのだろう。
(発病と言っても、これも色んな症状があるので、一口に発病とまとめられるものでもないのだろうが)

どうも、短絡的な回路で、自分が納得できるような説明や理由付けができると、原因が分かったかのように思ってしまう錯誤・誤信の回路が出来ているようである。ほんのわずかな事からすべてを決めてしまう思考の癖が、どうもあるようだ。
そういう回路を自覚し、考えていく回路自体を客観的に検べていける研鑽方式の考え方に切り替える必要を改めて思う。
迷信・誤信についての考察 | - | -

内観にみる人間観5(嘘について)

 嘘ということに対する面白い解釈があった。それは、自身の具体的な実例を前にしての内観者の洞察から出てきたものだが、それを聞いて自分の受け取ったあたりをちょっと整理して、ごく単純化して表現してみると・・・

・実際でない、本当でない、ということを嘘と言うなら、人間の捉えたものは全部嘘ということになるが、そこまでは言わないにしても、自分が自分の感覚で捉えた、受け取ったという自覚なく、自分の中で「実際はこうだ、本当はこうだ」と決めて、思いをふくらませていく妄想、そして、そこから発する言動、それは嘘以外の何者でもない。こういう場合、嘘ついているという自覚がない。

・約束・規則・法律・あり方等(の観念)に縛られて、自分の実際の気持、本当の気持が見えなくなっている。自分は自分の考えや意志で何かをやっているつもりでいるが、実は自分の実際の気持、本当の気持でやっているのとは違う。自分の実際の気持や本当の気持に嘘ついている。こういう場合も嘘という自覚はない。

 嘘にもいろいろあるものだ。でも、やっぱ嘘として(嘘という観念で)捉えられる人の心(の状態)があるようだ。本当でない・真実でない心と言ってしまえば簡単だが、やっぱ自分の心のうちがどうなっているかということを、自分で自分の中に具体的に突き止めることをしないならば、嘘はなくならないだろう。嘘がなくならない限り、本当に晴れ晴れとした心、本当に晴れ晴れとした人生は実現しない。

 嘘というのは、一人の心理的負担に留まる場合もあるが、その多くは人の活動となってあらわれ、その影響は広く周囲にまで及んでいく。機構制度や組織の運営経営にまで嘘が入ると、多くの人の現実と齟齬をきたす。人の中の心理的負担の多くはそこに起因するとも言える。そういう心理的負担からまた、人の中に嘘が生まれるのだろう。
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内観にみる人間観4(嘘について)

 内観法の中に<嘘と盗み>というテーマが用意されていることは大きいことだと思った。人は誰でも一つや二つの嘘はついたことがあるだろう。いや、一つや二つどころではない。50年60年と生きてきたのであれば何十の嘘を、人によっては何百もの嘘をついてきたという人もいるかもしれない。嘘八百という言葉もあったような気がする。

 嘘という言葉の意味を知らない人はいないようだ。だいたい誰でも「自分は嘘ついたことがある」とは思っているようだ。それは身を持ってその言葉の意味を知っているということだ。

 もちろん嘘という言葉の意味は人それぞれ違うのだと思う。でも内観では「嘘とは、何か」という定義は抜きにして、その人の受け取りのままに、自分の嘘について調べてもらう。まずは「自分はどんな嘘をついたことがあるか」と幼少の頃から年齢を区切って調べていく。

 人によって少々の違いはあるにしても、ほとんどの人が記憶に残る時代、つまり小学校に上がる前後ぐらいには嘘ついた経験があるようだ。もちろん、その当時そういう自覚(嘘をついた自覚)があったかどうかは別で、「その当時嘘ついた」と思い出だすのも、今振り返ってみての捉え方だと思うが。ただ、例えば「親に何か嘘をついた」経験として、今の自分の記憶によみがえるのは、その当時の場面だけではない。その時の自分の心のうちもよみがえってくるのだ。心に何か残るものがあるからこそ、それが「嘘をついた」経験として自分の中によみがえってくるのだといえないだろうか。

 嘘というテーマは、自分の心の実際を見るためのテーマだ。もちろん心の一面のことだと思うが。さっき「嘘とは何か」という定義を抜きにして、各自の受け取りのままに調べるみたいなことを言ったが、それは、その人が嘘という言葉を手がかりに自分の心のうちを調べるといってもいいかもしれない。だから他の人が聞いたら「そういうのを嘘というの?」と疑問に思う人もいるかもしれないが、主眼は、どれだけその人が自分の心のうちを見れるかということだ。

・恥ずかしい、人に隠しておきたい、それで嘘をついた(恥の観念)
・それを言うと自分が損するから、嘘をついた(自己中心的・功利的)
・人に褒められたくて、よく思われたくて、嘘をついた(人の目を気にする)
・叱られるのが、怖くて嘘をついた(恐怖)
・仲間外れにされたくなくて、嘘をついた(不安)
・自分のプライドを傷つけられたくなくて、嘘をついた(自己保身)

 思いつくままに挙げたが、まだまだあるに違いない。もちろん内観で全部このように「何で嘘をついたか?」と調べるわけでもないのだが、その時々で嘘つく自分(の心)を見ていると、自分の心の実際(一面)が何か見えてくるようだ。良し悪しの観念の強い人は、途中目を背けたくなることもあるようだが、それでもそこを直視することで、自分の実質(心のうち)をもっと調べてみたいという意欲もわいてくる。

 嘘というものは言葉や行動にあらわれるのだが、その前に心にあらわれている。そのもとは、その人の人間観(心のありよう)に根ざしているように思われる。(言葉や行動の嘘←心の嘘←元の観念《人間観》・元の心の状態) 
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内観にみる人間観3

 ごく常識的な見方のような気もするが、人はまず親(身近な人)を見て<人を知る>のかと思う。親との関係でといった方がいいのかもしれない。
 
 ここでいう<人を知る>とは、<人とはどういうものかという人間観>がその人の中に形成されることとも言える。

 そういう人間観は、親をはじめとした身近な人と接する中で時間をかけてじっくりと形成されていくのだから、一度出来上がると中々変わらないような気もする。

 その人の人間観がどういうものかということは、端からみて簡単にこういうものだと特定できるものではないが、それは他の人に対する信頼(警戒)の度合いとかに強く現れるような気もする。また親に対する好きとか嫌いとかの思い方とか、人によっては「自分がこんな風になったのは親のせいだ」と思って、親を恨んだり憎んだりするケースもあり、そういうことも、その人の人間観と深くつながっているのではないかと思う。

 こんなこと書くのも自分の中に何の確証もなく、今の単なる思い付きで書いたが、とても不思議に思うことがある。

 長年かけて形成された人間観が、じっと座って自分の中を見ている(内観している)だけで変わっていく、これはなんとも不思議なことではないかと思った。他から何の知識を入れるわけではない。

 じっと座って内観することで親に対する印象が変わる。そして、その人の人間観も変わっていく。

 育つ過程で「親を見て<人>を知る」、そして、いつの日にか内観して、また「親を見て<人>を知る」ことになる。親の方は何も変わらないはずだが、<人>の中身が全然違ってくる。なんとも不思議なことではないか。何の知識を外から入れるわけでもないのに・・・
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内観にみる人間観2

・内観の中で母親に対する自分を調べるという場合の母親とは自分を産んでくれた母親だ。調べている間でも自分との関係の中での母というふうに見ている。これもしてくれた、あれもしてくれた、こんな迷惑をかけたな、とかいうように自分との関係で、いろいろなことがまずは浮かんでくる。そのように繰り返し調べているうちに、もう何十年も前のことなのに、その時の母が急に自分の身に迫ってくる感じがする。自分の内観体験の中でもそんなことがあった。でも、それは母の気持が分かったというようなものではなかったように思う。自分がどんなであろうと、絶えず自分に気をかけてくれる母という存在、その存在の大きさを知るといったらいいだろうか。その時には、単に自分との関係の中での母というものではなくなっているような気がする。母という人の存在がしっかりある、そんな感覚だ。そこで初めて、今まで母の気持を思いやろうともしなかった自分にも気付く。

・「両親に対する自分ということで調べているときに、兄のことも自分の中に出てきて、何か気にかかるから兄に対する自分についても調べてみたい」とある人が出していた。内観する人の多くが、両親に対する自分について調べて両親の存在の大きさを知ると、兄弟とか自分にとって身近な他の人の存在も何か気にかかってくるようだ。その人に対する自分を調べていると、あらためてその人の存在が自分に感じられてくる、そんな過程が内観体験の中にはあるようだ。自分との関わりの中で自分なりに作っていたイメージを超えた存在として感じられてくる。そうして初めて「その人はその時実際どんな気持だったのだろうか?」とその人の方に気持が向く。

・人の気持を推しはかるということもあるが、それ以前にその人の存在を知るということがあると思う。その人の存在を知るということは、その人にもその人の気持があるということを知るということだ。あたり前のことだが、この辺のことが抜けると、相手の気持を思っているつもりでも、いつまでも自分の思いの世界から抜けられない。 
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