内観コースに小学生を受け入れて Ⅲ

 子供は言葉が少ないのだと改めて思った。それは語彙が少ないということと説明が少ないということだ。面接も1~2分で終わってしまう。その子は前に内観体験をしているので、ちゃんと面接での報告の仕方にそって話す。だけど言葉が少ないし説明もない。簡単明瞭、あっという間に終わってしまう。取り付く島がない。エッ!それだけ?という感じ。どうも勝手が違うなと思った。

 内観の面接では三つのテーマで思い出したこと(調べたこと)を報告する。状況や経過の説明とかは要らない。思い出した(調べた)そのことを報告したらいい。自分が母に世話になったことは、おもちゃを買ってもらったこと、して返したことは、そうじを手伝ったこと、迷惑かけたことは、部屋のガラスを割ったこと、そんな感じでいい。実際その子の中で具体的な場面が思い出されていたらいいのだ。どれだけ鮮明になっているかということはあるが。

 面接者の方は聴くことが主で、内観者の報告した内容についてどうこう言うということはない。ただ内観者が自分に目を向けているかどうか、集中できているかどうか、具体性があるかどうか、そんなあたりに着眼する。

 大人の面接は子供に比べると時間が長い。5分10分15分と人さまざまでその時々でも違う。話の内容もいろいろで三つのテーマについての報告も、経過や状況の説明から始まることもあり、それに結構時間がかかる。子供と大分違う。内観者の報告の仕方がどうこうということでなく、大人の面接では(面接者である)自分が話(言葉)をたくさん聞いているんだなと思った。それに比べて子供の場合は自分の聞く言葉(の数)が少ない。大分勝手が違う。

 もしかして自分の方に何か言葉(話)に依存するものがあったのではないかと思った。面接者として自分が受け取った言葉で相手を見ようとする分かろうとする。場合によって分かったとなってしまうのか。だから言葉少ない子供についてはその内(中身)がよく見えない分からない。そんな思いも出てくる。今振り返ってみると、ずっと子供ってよくわからないなみたいな思いが自分の中にあったような気がする。この辺はもう少し掘り下げて検べてみたいところだ。
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内観コースに小学生を受け入れて Ⅱ

 今までの内観コースの参加者は年齢からみて40代50代の人が圧倒的に多かった。30代の人も何人かはいるが。今年になって短大一年の女性を受け入れたときと高校卒業してすぐの青年を受け入れたときには、何か年齢的な(?)違いというものを強く感じた。話が単純明快で、具体性があって分かりやすい、まっすぐ自分に目を向け自分のことをそのまま見れる、そんな印象を自分は持った。

 これを、数少ない事例だけで年齢的な違いだなどというのは無理な話かもしれない。人それぞれの違いといっておいた方が無難なのだろう。ただこのとき自分の中に「人は本来自分に目を向ける能力(機能)を備えているのではないか」という考えが浮かんだ。

 生まれてすぐのころはどうかわからないが、意識というものが出てくると同時に、人は外にも内(自分)にも目(意識)が向く。本来は外のことも内(自分)のこともそのまま見ようとする機能があるのではないか。それが成長するにしたがって経験を積みいろいろな知識(観念)や言葉を覚え、意識内容も多く(複雑に?)なってくる。それだけならまだよいが、そのうち固定的な観念(知識や言葉)も多くなり、それが自分を見る目を曇らせる。それで自分に目を向けにくくなる。そんな過程があるのではないか。何歳ごろとは特定できないが意外と早い時期に子供の中にも固定的な観念が入るように思う。だから出来るだけ早いうちに、その子に備わっている自分に目を向ける機能に着眼して、それを磨き伸ばす、そんな工夫がいるのではないか。

 こんな考えも頭にあり、また内観法を体験した小学生の話もいくつか耳にしており、内観法の三つのテーマ(①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたこと)の意味が分かる子なら誰でも内観する(自分に目を向ける・客観視する)ことができるのではないかという思いがあった。

 ところが内観コースが始まって小学生を目の前にしたとき、何か勝手が違うなというのが正直な印象だった。それは短大生や高卒の子を受け入れたときともまったくといっていいほど違う自分の中の感覚であった。
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内観コースに小学生を受け入れて Ⅰ

 今回の内観コースには小学5年生の男の子を受け入れた。この子は去年の夏に奈良の方の内観研修所で内観体験をしていることもあり、研修所での暮らしにも最初から抵抗なく入っていけたようだ。その上、母親など身近な人に対する自分を①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことという三つのテーマで思い出していく(調べていく)という内観の仕方にもスッと乗っていけたように思う。

 「自分を知るための内観コース」は文字通り自分を知るためのものだ。自分を知るためにも先ずは自分に目を向けて自分を客観視できるようにならなければならない。内観コースでは具体的なテーマで自分を調べるのだが、そのことを通して自ずと自分を客観視する目が養われていく。

 内観体験をしたあとに、わが子にもこういう体験をさせてみたいと言う人が多い。それは、わが子のことを思うとき、わが子にも出来るだけはやく自分を客観視する目を養う機会を用意してあげたいという切実な願いからでているように思う。子育てや仕事に忙しく追われる日常の中では自分に目を向けにくくなる、そんな親自身の体験からの自覚もあってのことだと思う。

 今回子供を受け入れるにあたって、自分に目を向けるとか自分を観察するとかいうことが子供においてはどんな感じなのだろう、子供の内観はどんなふうに進んでいくのだろうかという興味を持って臨んだのだが・・・
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人間について あれこれ ①

全てのものは全てのもののバランスの中で存在していると思う。
人間はその中の一部分だと思う。
他の生物もそうだと思うが、人間も種として存続し得るものを具えていると思う。
人間の場合、本能的なものと知能が具わっていると思う。
所謂「天敵」というようなものも無く、人間自ら宇宙自然人間同士のバランスを保ちながら存続できる知能があると思う。
人間の知能を結集し、共に宇宙自然界・人間の実際を観察・探求し、最も人間らしい生き方や、誰もがそう出来る方式なども共に研究しながら実行していけたら、現在問題となっているような事は全て解決し得るし、かつてない人間生活になるだろうと思う。
世界平和が目的でなく最低ラインで、そこから本来の人間活動が繰り広げられるだろう。

では何故知能を結集できないのか?
それは自分の考え・自分達の考えを正しいとするところから、他と共に出来なくなると思う。
何故、宇宙自然界・人間の実際を観察・探求し、人間としての研究が出来ないのか?
それは人間の考えを正しいとするところから、どこまでも実際を観察・探求し研究していこうとならないと思う。
何故そんなに強固な観念状態になるのだろう?
それは人間の考え・自分の考えとはどういうものかを知らず勘違いしているからだと思う。
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