自立した社会人⑤

今の社会の中で、自発的自由意志ではなく、周囲の状況や、規則・法律・ルール・きまり・教え・常識などに合わして動くことに慣れ親しんだ考え方が身に付いてしまっている人が多いのだろう。
そういう人は、自分も人も、自分の意思で動くのではなく、他のもので動くという人間観で見るようになってしまっている状態なのだろう。だから、、自分が動く場合でも、人に何かしてほしい場合でも、規則・法律・ルール・きまり・教え・常識等を持ち出して、それで動く・動かされるような感覚で暮らしているのだろう。

そういうことで社会も成り立っているんだという社会観も形成されてきているのだろうから、マナー・ルール・しきたり等が、あたかも、厳然と存在するかのような観え方になってしまうのだろう。
それで社会が成り立っているのだから、それを守っているかどうかが、一番の関心事になっていってしまう。
そうすると、規則やルールが人と人との関係の中に深く入り込み、人そのもの・その人の心が見えなくなってしまうのだろう。

例)花壇に花の種を植えたので、子どもに花壇に入らないでほしいという願いがあるという場合でも、他のもので人が動くという人間観・社会観の人は、「入ってはいけません」「立ち入り禁止」等というルールやきまりを作って、それを子どもに守らそうとする発想になるのだろう。
(それに加えて、守らないと罰を与えるという発想も加わり、更にルールを守ることを強いていき、罰を受けたくないから、ルールを守るという、ますます自発的自由意志から離れていってしまう)

自立した社会人たらんとする人は、自らが自発的自由意志で動こうとする人になっていこうとする。そうなると、他の人に対しても、その人はその人の意思で動くのだと見るようになってくるのだろう。
そうなると、人に何かをしてほしい場合でも、意思と意思の交流をベースにして、その人の意思になってこそ、そのことが成っていく、という発想になっていくのだろう。
上記例の場合でも、子どもに対して、「種を植えたから、花壇には入らないでほしいんだ」という自分の意思を伝えて、その子の意思に働きかけていくのだろう。
そういう観方に立った人は、仮に、子どもが花壇に入った姿を見かけても、即座に、「こら!」とか、「入っちゃダメでしょ!」と行動だけを見て、やめさせたり、叱ろうとする発想にはならないのだろう。自分の意思が伝わっているのか?その子はどういう気持・意思で花壇に入るという行動をとっているのだろうか?と、行為の前の心の方に関心が向くようになるのだろう。

人と人とが暮らしていく上では、仕組みや、こうしようとかいう合意事項はあるのだろう。
が、それをその人の意思でやっていこうという自立した人で運営していく社会と、それがあるからそれを守らねばならぬと、自他を縛って、その仕組みを維持することに重点を置く人の造る社会では、まるで異なった社会が現れてくることになるだろう。
自立した社会人 | - | -

自立した社会人④

「自立」というテーマを考えていく時、”付き合い”で成り立っている関係に、光が当たってくる。

ある人の例:
風邪で咳が出ているので、咳止めの薬を呑みたいと思っている時に、親しい人の家に行った。そこに風邪薬が置いてあり、手に取ってみていると、その家の人が、「持っていっていいよ」と言う。が、その風邪薬は、鼻水止めの薬で、ほしい薬ではない。が、その家の人が、「持って行きなよ」と何度か言う。
せっかく自分のことを心配してくれて声をかけてくれているんだから、断るのは悪いし、効能書きにも小さく咳のことも書いてあるから、と、自分が咳止めの薬がほしいということは言わずに、その薬をもらって帰った・・・・なんとなく、すっきりしないまま。

これには、せっかく○○してくれるんだから、という観方があるのだろう。
これも、相手の人が、自発的自由意志でやっているというのではなく、わざわざやってくれている、せっかくしてくれているという、”恩を受けている”というような人間関係で捉える社会観から、そのように観えてくるのだろう。
せっかく○○してくれたんだから、という関係で捉える世界では、それに対しては、恩を返すような行動が、当然要請される。自発的なものではなく、その枠組みで動かされているような状態だろうか。

断ると、気を悪くするんではないか?という捉え方もある。
気持を受けたということはあるのだろう。
が、だからといって、ほしくもない薬をもらうことが、気持を受けたということにはならないだろう。気持と事柄が混線している世界。
また、”断る”というような意識になっている時は、状況がこうなっている、そういうことに対して、自分で結論を出して、それを言おうとするような状態なのだろう。つまり、相手の意見を聴き、自分の意見も出して、共に話し合うという状態ではない。決まったものと捉え、それに対して、決まったもので対しているような状態とも言えようか。

”付き合い”の状態では、自分の自発的な意志を見出すことも出来ないのだろう。曇りがかかったような世界で生きているという感じだろうか。
絡み合った人間関係の中で、関係面を気にしながら、縛り合いながら生きているような世界が見えて来る。
そこに、「自覚」の光が差し込むと、自分の意志が見え出し、知恵が働き出し、話し合える状態に心もなっていき・・・と展開していくのだろう。
自立した社会人 | - | -

自立した社会人③

一見、自発的にやっているような行為でも、つぶさにその中身を検討してみると、自発的なものではなく、他発的だったり、見返りを求めていたり、依存的なものだったりする場合がある。

例えば、車を運転していて、細い道で、車とすれ違う場面。
車を横に寄せて、対向車を通してあげる。
対向車が、スーッと通り過ぎていく。
「クラクションも鳴らさないで・・・(ちょっとくらいお礼の挨拶くらいしろよ)」
かすかながら、気分が悪くなったりするという場合。

相手が何もしないことで、こちらの気分が悪くなる。
これは、いったいどういうことだろうか?


自分が自発的にやっているように思っているが、中身を検べてみると、「○○してあげる」という意識が潜んでいることが明らかになってくる。つまり、見返りを求める、恩を売るといった意識だろうか。
だから、何も返って来ないと、不足というか不満感が湧いてくる。
自分の内発的なものでないから、返るものがあって、やっと帳尻が合うような心理機構になっているようだ。


相手に対して、何かをする場合でも、自立した人と、そうでない人では、まったく違う世界での行動になるのであろう。
自立していない人は、相手を喜ばせようと思って(喜ぶはずだとして)、何かをするのだろう。「相手のためにしてあげている」という見返りを求めるような心境なのかもしれない。自分の思う結果にならないと、がっかりしたり、肚を立てたり、「せっかく、してあげたのに」という反応につながっていったりするのだろう。
自立した人は、自分がそうしたくてしているという自覚がまずあるのだろう。「こうしたら相手が喜ぶだろう」ということが、自分の考えであるという自覚もあるのだろう。相手に尋てみるとか、自分で選んだ場合も、相手が喜んでくれたらうれしいなというような心境なのだろう。相手が喜ばなかった場合も、そこを受け入れ、じゃあどうするか、とか、自分の考えの足りなさなどに思いがいく感じだろうか。

自立した人達が作る社会は、どんなにかスッキリとしたものになるかが、垣間見れるようだ。
自立した社会人 | - | -