2006.10.26 Thu
「自分を知る」プロセス
⑧ 自分というものがどういう存在であるかを知る
⑦ それは、自分の成り立ちを知るということ
⑥ それは、自分の本体というか、自分そのものを見るということ
⑤ それには、自分に着いた表層のもの(思いや感情・知識や経験 等々)を見ること
④ それには、現状の自分のありのままを観察すること
③ それには、人や物に気を散らさず自分を見る練習を積むこと
② それは、会話中も食事中も仕事中も、対象(人・物・事)を見るのではなく、自分を見るということ
① 「自分を見る」・・・この一点に賭ける暮らしを始める。
⑨ 自分の存在・成り立ちを知るということは、人の存在・成り立ちを知るということ
⑩ 人の存在・成り立ちを知るということは、社会の成り立ちを知るということ
⑪ 自分の成り立ちを知るということは、社会の成り立ちを知るということ
⑫ 自分を知るということは、この世界を知るということ
⑬ 自分を存在させている世界の大きさを知るということ
⑭ 自分が受けているものの大きさを知るということ
⑮ 際限なく多くのものを受けている自分の心が実現する
⑯ 際限なく多くのものを受けている自分の人生が始まる
2006.10.26 Thu
ある職場でのこと。
打合せで
「この場所は、資料を閲覧場所として使おう」
となった。
Aさん場合は、「ここは資料を閲覧する場所だ」となってしまう。
だから、それ以外のことは認められなくなる、許せなくなる。
そうすると、そこに物を置いたりする人を見ると、「まったく!」「何で、こんな所に、こんな物を置くの!」と、人を責めるような、邪魔な物が置かれているような反応が起きてくる。
職場にそういう空気が流れていく。
そしてまた、Aさんが、それを徹底しようとして、次の打合せで、「あそこは、資料を閲覧する場所として決まったでしょ。みんな守って下さい」と強く言う。
そうすると、「そこは、資料を閲覧する以外には使ってはいけない」という空気が流れる。(そういう観方の人が増える)
そうしない人に対する視線がますます厳しくなる・・・。
束縛区が、こうして出来上がっていく。
みんなで話し合い、一致点がでるほど、窮屈になってくる。
Bさんの場合は、「資料を閲覧する場所として使っていこう」というのが、自分の中のこととして自覚されている。
その場所は、その場所としてある。
物を置く人は、その人の感覚で置いている。
物は物としてある。
閲覧する場所としてつかいたいけど、どうか?という視点で考えれる。
いつでも見直せる、考え直せる。
みんなで話し合って、一応こうしようとなったことも、それも、各自の中にそれがあるだけ。(その捉え方も一様ではないのだが・・・)
どちらの方向に行くか?
出発点で決まるようだ。
自覚のある人、ない人・・・。
2006.10.26 Thu
「自分を知る」プロセス
⑧ 自分というものがどういう存在であるかを知る
⑦ それは、自分の成り立ちを知るということ
⑥ それは、自分の本体というか、自分そのものを見るということ
⑤ それには、自分に着いた表層のもの(思いや感情・知識や経験 等々)を見ること
④ それには、現状の自分のありのままを観察すること
③ それには、人や物に気を散らさず自分を見る練習を積むこと
② それは、会話中も食事中も仕事中も、対象(人・物・事)を見るのではなく、自分を見るということ
① 「自分を見る」・・・この一点に賭ける暮らしを始める。
⑨ 自分の存在・成り立ちを知るということは、人の存在・成り立ちを知るということ
⑩ 人の存在・成り立ちを知るということは、社会の成り立ちを知るということ
⑪ 自分の成り立ちを知るということは、社会の成り立ちを知るということ
⑫ 自分を知るということは、この世界を知るということ
⑬ 自分を存在させている世界の大きさを知るということ
⑭ 自分が受けているものの大きさを知るということ
⑮ 際限なく多くのものを受けている自分の心が実現する
⑯ 際限なく多くのものを受けている自分の人生が始まる
2006.10.25 Wed
心の世界は理に即したもの
理に即した人心観念・・・自覚 → 人格 → 資格
物には、こうすればこうなる、といった物の理がある。それに即して物を扱い生活している。
心にも、こうすればこうなる、といった心の理がある。それに即して心を扱い生活していく。
義務・責任・常識・道徳・仕事・財産、等々によって、心の理を見失っている。
心は養い高めることができる(他の動物との違い)・・・人格
心を高めることによって実現できる社会・・・・・・・・要資格
物の理の解明と技術の開発によって実現する、高い物質文明
心の理の解明と人格の訓育によって実現する、高い社会文明
忙しい・やらなければ・損した・儲かった・人にひっかかった・不平・不満・不足感・・・・こういう世界に明日はない。放っておいて自滅解消を待つ。
下種(げす)な心は問答無用。心を清めて人間復帰してから社会復帰。
気高く、素直で、美しい心の人になる。
そういう心でこそ生きられる社会組織に改造する。
先ず、職場から・・・ 家庭から・・・
これを本気でやろうとすると自分の心が問われる・自己に還ってくる・・・心を高めることになる(具現方式)
・・・言い換えると、人格がないというのは、本気がないということ
・・・本気になったら、先ず自分がそうなる以外に道はない
2006.10.25 Wed
内観法では、父母その他身近な人に対する自分を①お世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたこと、という三つのテーマにそって年代順に実際はどうかと具体的に調べていく。抽象的でなくとても具体的なこの三つのテーマというのが内観法の核の部分をなしているように思う。なぜこの三つのテーマなのかということは今の自分の体験からでは捉えきれるものではない。
現行の内観法の創始者吉本伊信氏の言葉に「内観(療)法は一つの自己探求法であります。この方法は浄土真宗の一派に伝わる「身調べ」という求道法から発展してきたもので、現在では一宗一派に偏った宗教的色彩を取除き、老若男女誰でもができるような形にした精神修養法であり、人格改善法であり、精神療法であります。」とある。
少し長くなるが吉本氏の言葉をもう一つ引用する。「教養を深めたり、理論をたくわえていくには書物その他に頼ればよいのですが、他ならぬ独自の存在であるこの「自己」については、具体的にはどこにも書いてありません。それは自分で探し求め自分の中から学ばねばならないのです。自分をよく見つめ、自分の姿を歪みなく正確につかむためには、徹底的に自分一人で、生身の自分に向かい合う以外に方法はありません。」
生身の自分に向かい合う方法(実際の自分を反省する方法)として、長年の自身の内観の体験および内観道場での指導経験から、実際の自分を反省する具体的な過程を整序して編み出されたものが現行の内観法ということらしい。この三つのテーマもそういう中で案出されたものだろう。
実際の自分に向き合って調べる、調べることに集中するといっても自分のどこに焦点をあてて調べるかということのような気もする。いや、そこを真に具体的に調べれば自ずと焦点が合ってくる、そういうテーマだと言ったほうがいいかもしれない。テーマがそういうふうに設定されている。そんな気もする。
調べることで何か見えてくる世界がある。これと言ってはっきり表現できるものではないが、何か本質的なものに触れる思いがする。自分の思いを調べるのではなく、母(他の人)に対する実際の自分、自分の実際に向き合って具体的に調べようとすることで、自分の実際の姿自分の実際の心(心底)に迫っていく。その時母(他の人)の実際の姿実際の心(心底)にも触れられる思いがする。心底で繋がっていく。心底で繋がっている実際の世界(心の世界)。こんなふうに本当に言い切れるものかどうか。でも何かそういうものを感じる。
抽象的でなく具体的なこの三つのテーマの意味とか、それを調べる過程とか、それを調べることで向いていく方向とか、それを調べることで触れる(思いのする)世界とか、そのあたりをさらに探っていきたい。そこにある理を見究めたいものだ。