内観の体験の中から Ⅳ

 内観の方法として、最初指示されたことは、母に対する自分を①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことの3点について、年代順に具体的な事実を調べます、ということだった。

 具体的な事実を調べると言っても最初は自分の記憶に頼ろうとする。自ずと記憶は湧いてくるものだ。自分の記憶する範囲で調べようとする。わりと自分の中の記憶がハッキリしている時代はいいが、自分の中で記憶のうすい時代は調べようがない感じがした。そんな時に面接で「実際はどうかと具体的な事実を調べます」と声かけてくれた。今思うと自分の過去の記憶をそのまま過去の事実としてそれを調べようとしていたのだなと思う。記憶があるないにかかわらず過去の事実(実際)はある。母がいなかったら自分は生まれてもいないし母の世話がなかったらその後の自分の人生もない。あたりまえと言えばあたりまえのことだが「ああそうだな」と何か納得するものがあった。今振り振り返ってみると自分の中で記憶と事実が分かれてきた、記憶は記憶、実際はどんなだったか、そんなふうに頭が働きだした、そんなふうに言えるような気もする。でも実際を調べようとしてどれほどのことが自分に観えてきたかは覚束ない。母については3回調べたが調べるたびに観え方が違ってくる。でも回を重ねるたびに身にしみてくるものがあった。何か方向があるような気がする。観え方(観念の世界)が心の世界に一致していく(寄り添っていく)方向?・・・
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上下関係が生ずるには、その元に、人間をどう見ているかという基本的な人間観が関係しているのだろう。

自分を知るためのベーシックコースに入ったりすると、自分の感覚で見ている自覚もなく、「知っている、分かっている」状態、つまりはキメツケ状態である自分に気づき、これはなかなか・・・と思う人が多いのだろうとは思う。

が、しかし、日常に戻ると、自覚が大事だとは思いながらも、実際には、仕事を成り立たすことや、目の前のことに対応することに終始し、そのうち自覚は薄れていく、そんな暮らしになる場合もあるようだ。
これでは、今の常識的社会の延長にしかならない。いくら一生懸命仕事をしていても、業績を上げたとしても。

本当の幸福、本質的な社会を願うなら、やはり、そうなる道をたどるしかないと思う。
自覚のある人、そうなることの意味、重要性、位置づけが分かると、そこから始めるしかないということも見えてくるだろう。

本当に願うなら、真面目にそこからやってみることなのだろう。
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内観の体験の中から Ⅲ

 内観ではたとえば母に対する自分を年代ごとに調べていくのだが、そのことに集中できなくなることがあった。いや最初の方は集中できない時間の方が多かったと思う。ある年代では、たとえば自分の自意識がとくに強くなってきたと思われる中学時代の時など、学校での友達とのこととか学校の先生のこととかいろんな記憶がよみがえり、またそれに伴って自分の中にいろいろな思いがわいてきて、本題の母に対する自分を調べるということにはなかなか集中できなかった。本題にもどってもまたすぐ意識が別のことに移ってしまう。今振り返ると最初の何日間は本題に集中する練習期間であったと言えそうだ。いろんな思いが出てきてもスッとそれを置いて本題に集中する、それがなかなかむずかしい。集中しようと思っても集中できない。そのうちにだんだんスッと本題に行くことができるようにもなってきたように思うが、この本題にスッと行くというか乗るというか、自分はまだここのところの骨がつかめたとも思えない。

 またこういうこともあった。調べている途中で本当にこんな調べ方でいいのだろうかと思って止まることがある。内観にも深い浅いがあると聞いている。何か自分の内観が浅い感じがして、やっぱ自分はふだん頭でばかり考えているから自分を深く見つめることがしにくいのだ、何か上滑りで身にしみるものがないとかいろいろ思い始める。そういうことが何度かあったように思う。途中、内観のしかたという内容のテープを聞いた時、自分の内観が深いのかな浅いのかなと思うこと自体本筋でない、その時すでに内観から離れているのだなと思い、それが自分の節目にもなったように思う。内観(調べること)に集中する、本当に集中していたらいろんな思いも出てこないと思うが、たとえ何かの思いが出てきてもそれを置いてスッと本筋に戻れるというか乗れるというか、その瞬間はなかなか自分で捉えきれるものではないが、そこ(その瞬間)が要(かなめ)のような気がもする。自分の中で磨いていくところはそこの一点、と言ったら言い過ぎだろうか。聴く時も観る時も考える時も調べる時も本筋を行く・・・本筋を行く生き方・・・そこが研鑚の入り口?・・・いろいろ思う。
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内観の体験の中から Ⅱ

 母に対する自分ということで自分の高校時代から大学に入るころのことを調べていた時、浪人して予備校に一年間通ったが、自分の記憶には残っていないにしても一年間の予備校の費用も母に出してもらったんだな、金額はまったく覚えてないけどそんなに安いものではなかったんではないかとか、また大学に受かった時も先に私立大に受かってその大学の入学金を納める期限が国立の合格発表よりも前だったので確か入学金10万円を母に出してもらって納めた記憶があるなとか思っていると、それだけでもああそういうことも母がしてくれたんだなという思いがわいてくる。さらにそのことを見つめていると、フッとお金ではない、お金にはかえられないものを感じてくる。ずっとそれ以前の母が育ててくれた過程を調べてきたあとなのでなおさら身にしみてくるものがある。何か母の人生が子のための人生としか言いようがない、そんなふうに見えてくる。そういう母を成長するにつれて何か低く見るようになっていた自分も思い出されてやりきれない思いも出てくる。自分の中の母親像が変わっていく。我が子(自分)のためにすべてを尽くす母というふうにしか見えない。その当時の母自身の実際の意識(思い)がどんなだったかはわからない。でも子供である自分からは今そういうふうにしか見えない。

 その後我が子に対する直接の世話から離れて余生を老人会の旅行とかして楽しんでいた母、当時の自分はそんなふうに母を見ていた。もちろん我が子(自分)を心配してくれていることも感じていたが、今思うと自分のその感じ方は実に浅はかなものだったと思う。母が実際日々思うことは我が子のことばかりではなかっただろうが、その心底はやはり我が子のことで占められていたのではないか。今の自分からはそういうふうにしか見えない。父についても今までの自分はその老後を盆栽三昧の悠悠自適の余生というように思っていたが、父の心に本当に鈍感な自分だったと思う。勤め続けて家族を支えて30年にもわたって4人の我が子の成長を見守ってくれた父の心が老後に手のひらをかえしたように変わるわけがない。盆栽三昧に見える父の心底もやはり我が子のことで占められていたのではないか。今の自分からはそういうふうにしか見えない。

 子を持つ親の親心。ふと自分を振り返ってみる。我が子(娘)に対して親である自分はどれだけのことをしてきたのだろうか。自分の中にわいてくる両親に対する自分の今のイメージとは程遠い自分を感じる。我が子を愛する気持に変わりはないが、何か自分のことで精一杯になっている。でも日々の自分の思い(意識の表層)ではなく自分の心底ももっと掘り下げてみたい。今自分の中に『連綿と引き継がれていく親心』というような言葉が浮かんできている。『大愛大慈悲の現れとしての親心』『心の世界のつながり』、いろいろ言葉は浮かんでくるがその辺の実質をもっと探っていきたいものだ。

 我が子云々でなくても、ああ自分は雑踏のなかでも無意識的により若い子へ、より幼い子へと目が行くなと今ふと思った。何か自然な感じもする。
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心の世界で出会う時

内観コースをやっていると、心の世界というものを感じるし、どういう世界なのか考えさせられる。

内観で、ある人に対する自分を調べる中で、何十年も前の場面で、その人が発した言葉が、今の自分に届くという感じになる場合がある。その時には届かなかったその人の心が、今の自分に響く、迫ってくるという感じなのだろうか。
「心の世界に、過去も今もない」と感想に書いていた人がいたが、何十年かの時を経て、その人は亡くなったりしても、その心は、今の自分に響いてくる。

親から世話してもらったことなど、あまりにも当然のように受け、まるで空気や水のごとくの感覚で、その存在も意識しない、記憶にもないという状態から、調べてみることによって、当り前というものが取り払われた時、その当時に注ぎ込まれた愛情が、親の心が、今の自分に流れ込むように感じられる。時空を超えて、ということなのだろうか。
足りない、愛情不足、さびしい・・・と感じてきた人が、そこを感じられた時に、心の世界が満たされ、不足感から、解放されていく。
ここが満たされないと、その不足感を埋めようと、様々な欲求が生じ、その欲求を埋めようとしてやっても、それは一時的なものになってしまう。心の世界が満たされない限りは解決しないようだ。

心の世界・・・不思議な世界。
そこを解明していくことで・・・。
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