内観コース始まる

ある人は、母さんに対する自分を調べていて、「自分は親に何もしてもらっていない」という印象だった。「高校時代からアルバイトで稼いで自分のやりたいことは自分でやってきた」と思ってきた。
ところが、具体的な事実を調べてみると、実際は、してもらってばかり、心配ばかりかけているばかりで、母親には何もして返してはいない自分ということを、初めて知ってしまって・・・と展開している。

自分がしている、自分がやっている、と、意識の方は、どうも自分が大きくなる傾向があるのだろうか。
自分ひとりで大きくなったように思い違いしやすいようだ。
実際の世界は、自分のしたことなんて、ほんのちょこっとしたことだけ。後は、してもらってばかり、迷惑かけたことばっかり・・・。

実際の世界を知るということは、自分を知るということになるようだ。
自分を知るための内観コース | - | -

上下関係について

上下関係が生ずるには、その元に、人間をどう見ているかという基本的な人間観が関係しているのだろう。
一人一人の人を一人の人間として見ていない。何らかの力で動かせる、動かそうという人間観から来るのだろうか。
力や圧迫・圧力・恐怖などで脅すか、または褒美・報酬などの外的な動機を持たせて、人を動かそうとする。つまりは、動物を扱う際の、「飴と鞭」で調教するような観方からくるのだろうか。
一人一人は異う。一人一人の感覚、考え、欲求は異う。人は自発的に行動する。自由を求める。そういう基本的な人間というものを知っていくと、その人に働きかけたり、話し合ったりということはあるとしても、動かそうと圧力を加えたり、何かで釣ったりというのが、本来的なものからはずれているものと見えてくる。

今までの既成の社会で育ってきた者にとって、上下関係のあるのはある面当たり前だったのかもしれない。
決めたものがあると、上下関係になりたくなくても、決めたものを動かそうとしない限り、束縛があり、やらせようという作用になり、「飴か、鞭」を使わざるを得なくなる。
社会とはそんなものという根強い観方があるかもしれない。
しかし、それもその人の頭にあること。

自分を知るコースでやっている自分が捉えているという自覚ということを、もっと深くやることで、社会と捉えていることも、自分がそう捉えていること、その人がそう捉えていること、と、その実情が見えてくるのだろう。
上下関係も、「そんなものはない」と頭でそう思っても、そう見えてしまう人には、あるように感じられてしまうのだから、その感じるものを解消しようとして色々やってみても、それは表層の対処にしかならない。一緒に酒を呑んでみたり、対等に話してみたりとか、では根本的な観方の変革には至らない。
観える観方まで検べていかない限り変わっていかないだろう。

根本からいくのが、早道といえようか・・・。
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