解放区実現・・・上下感、権力の解消・消滅

解放区実現の上で、一つ欠かせないテーマになるのが、権力、支配、上下感等などの解消であろう。

組織を作ると、どうしても権力者、支配者または、そのような特別な階級が出来るという観方がある。つまり、必ず上下関係が生ずるということであろう。

本来は、一人一人の人間に上下の差別があろうはずはない。
一人一人の異いはあろうが、本質的に上下はないだろう。

また、社会には、様々な役割や立場の違いはあるわけだが、本質的には、上下があるわけでもないだろう。

が、役割や立場の違いが、上下関係になったり、権力や、支配などが生まれてくるのは、人間の観念が作り出した誤りだろう。

今までの社会で慣れ親しんだ観念からか、すぐに上下関係や、上下感を生じやすい観方になる場合があるようだ。

世話係と参加者、研究する人と実施する人、派遣する人と派遣で行く人、構想を練る人と現場でやる人、設計する人と施工する人、お金を算段する人とお金を出してもらう人・・・。
本来は、役割の違いだけではないだろうか。
上下関係はあるのか?
あるなら、どこに?何が間違いか?

「自分が捉えていること」という自覚のある人は、自分の意見も自分の観方も、自分個人の感覚であるということで、それ以上大きくならない、幅らないだろうが、「自分が良い、正しい」とすることが事実化している人は、自分の意見という自覚なく、人にも押し付け、人を縛ろうとするのだろう。それが、他の人も共通観念で、あたかも事実のように思うと、そう人が多いほど、押し付ける、縛る力も強くなっていくのだろう。
それが、仕組み的に共通観念で成り立つようになると、権力や、支配などが生まれてくるのだろう。これも、すべて人間の観念が作り出したもの。
そこが、それぞれの人がそう思っているだけ、というところで見れると、幻想としての支配や権力は消えてくるだろう。
ただ、そう思っている人が、そういう観念で押し付けてくるということは変わらずあるのだろうが。

そこに気づいた人達で、観念の妄想から抜け出して、また、抜け出し合って、誤りは正しながら、本来の姿で進んでいくことで、上下関係、支配、権力的なものを一切排していくことなのだろう。
職場解放区を考える | - | -

解放区実現の道筋・・・メモ

職場が解放区になっていくには・・・。

仕事を一生懸命やっていても、解放区は出来ない。
周囲の人に、「よく働くね」と評価されても、解放区は出来ない。
周囲から、「いい人だね」と評判が上がっても、解放区は出来ない。
お店が儲かって、繁盛したからといって、解放区が出来るわけではない。
ただ、話し合っているだけでも、解放区は出来ない。

解放区にしていくという目的・方向性がハッキリある人が要る。
それは、単にその目的が頭にある人でなく、その人の中身がそうなっている人。実質がそうなっている人。
そして、それは、真に解放された人。
つまり、何にも執われず、実際・事実・真実・真理を探り、その実現に関心のある人とも言えよう。
そういう人が先ずは実在してこそ、職場解放区への道筋が始まってくるのだろう。

仕事をしていると、経営成績・実績や、仕事の段取りや、業務遂行が目の前にあり、そのことを成すことが、目的実現と見間違いやすい。
お店が繁盛したり、周囲から評価が上がったり、業務成績が向上したとしても、それが真目的実現と何か関係あるのだろうか?

目的を外さない人。
自分が良いと思うことなんて、人間の考えで、いい加減なもの、そこが自覚できて、絶えず自分の(人間よりの)考えではなく、実際、真実はどうなんだろうと探り、見出すことに重点を置いている人。

仕事があるから、これをやると儲かるから、これはやらなければならないから・・・、どこに重点を置いているかは、自ずと現われるもの。

真に解放された人が先ずは一人、そしてその次にもう一人・・・と、職場内にそういう人が出来ていく道筋と、その最初の一人も、職場外の人とも検討を重ねていくという、重層的なつながりも大事だろう。
職場が解放区になっていく姿をハッキリ描き、そこに向けての今のやりどころを絶えず検討し、現実に即しながら、今のやりどころを見出しつつ、進んでいくことになるのだろう。

つづく。
職場解放区を考える | - | -

内観コースやってみて

内観コース第三回目をやってみてのメモを何点か。

〇自分の姿を正視(直視)することの大事さ。
「自分はこういう人だ」と自己認識をして、そうでない自分は認めたくないという心の働きがあるのだろうか?どうも自分の都合の悪い記憶は、意識化に押さえ込まれてしまうことがあるようだ。
過去の自分を検べていくと、自分の姿が段々に浮かび上がってくるのだが、随分とひどい実態の自分も見えてくる場合がある。(ひどいというのも、今の自分の観方から見たものだが)自分のことを「いい人と思っていたい」というような心の働きがあるのだろうか(このへんも、いったいどういうことなのか検べてみたいが)、そういう自分の姿を認めたくない、もう少しましな自分だと思っていたい、そんな気持が潜在的に起ってくる場合もあるようだ。
そこを乗り越えて、自分自身のありのままの姿を直視する、正視するというのが、自分を知るという意味では、とても大事だし、そこが出来た人は、人格的にも成長していくし、明るく、軽い姿になっていくようだ。
どんな自分も自分自身に相違なく、そういう自分も含めて自分である。
その時々で色んな心の状態になり、その心の状態で様々な自分が現われたりする。そんな自分をそのまままるごと見れる(受け止める)ことが、自分を知ることの先ず第一歩かと思う。先ずは、いいも悪いもなく、あるがままの自分の実際の姿を見る、知る、そこから、次に進んでいけるのだと思う。
内観コースに3回連続参加した人も、自分を検べる際にいつも避けて通るような時期があるのが気になりだして、今回本格的にそこに向き合ってみて、その時期の自分の姿がやっと浮かび上がり、無意識的に封印(抑圧)されていた記憶が見えてきた。そういう自分も丸ごと認められることで、新たなる自分というか、すべてを受け入れた統合された自分というものが生まれてくるようだ。

〇実際の姿を見ようとすること。
近い人に対しては、してもらっていること、世話になっていることなど、あまりにも当たり前になっていて、実際の姿がなかなか見えない場合が多いようだ。(ここが見えてくるには、そういう回路を作らないと、見えてこないのだろう)例えば、「高校に行って勉強した」という自分がした行為の背景には、学費を払ってもらったり、交通費、教科書、文房具、毎日の食事・弁当、洗濯、衣服、お風呂、小遣などなど・・・様々な数限りない様々な人の世話により成り立っているのだろうが、そこに目を向けないと、そういう実際のことは、あまりにも当然のことになってしまって、あるものが見えない。
見えないと、自分が大きくなり、人の存在がない、「自分がやったんだ」というようになってしまう。そこが見えてくると、自分が小さくなり、「自分がやった」なんて、あまり大きな顔して言えなくなるようだ。

〇自分を客観視すること。
内観も深まってくると、ある場面でのその人と、自分の姿が客観的に見えてくる。そして、自分の心の動きも、今の自分から見えてくる。
「自然に湧いてきたのはこういう気持ちだけど、でも、〇〇しなければ・・というのがあって、あんな行動をしてしまった」という感じで、その時の場面がくっきり見えてくる。そこで、その場ではそうとしか考えれなかったり、そのことからこうだとなって固まってしまっていた考えなどでも、今の自分から見直すことができるようになる。「なんだ、もっとあんなふうに考えれたのか」とか、「そう思い込んでいたけど、こうも考えれる、ああも考えれる」というように、自由に見れるようになる。執われた状態から解放されるという感じだろうか。
過去のことでも、そこを見直す機会がないと、そこに執われた頭の状態でずっといる場合もある。見直す機会がないと、ずっとその回路があり、同類の場面に出会うと、ワンパターンで反応してしまうということもあるようだ。
その場面や、回路を見直すことができると、そこから解放され、自由に考えていけるようになる。
過去を見直すことで、現在が自由になるような作用があるようだ。これは、実に面白いなと思った。

とりあえず、ここまで。
自分を知るための内観コース | - | -

解放された状態を探る

解放された状態とは、どういうことなのだろう?

解放された心の状態から、解放された姿が現れるのだろう。
つまり、
心の解放→解放された姿。
という順序で現れてくるものなのだろう。
もちろん、解放された姿に触れて、心が解放されてくる場合もあるだろう。

が、解放された姿を形として捉えて、その形をやろうとすると、誤ってしまのだろう。
形として捉えていること自体が、観念的、固定的な状態で、言わば「縛られた状態」に陥ってしまうのだろう。

例えば、「決めないで、何でも話し合いでやる」というような姿も、心の状態のことを言っているのか、形で捉えて形をやろうとするかで、全然異って来る。
皆で決めたことも、人間が一応取り決めたくらいのもので、人間の感覚で「そうしようか」としてるくらいのもので、そもそもいい加減なものと・・・、そういう心の状態で、「いつでも見直せる、改変できる」というような心の状態だったら、「今はこうしておこうか」、「今はこんな仕組みでいこう」と、どんどん決めていける。
それを形で捉えていると、「解放区だったら、決めない方がいい」みたいな固定的な捉え方で、窮屈になって、とりあえず決めておいたら済むことも、いちいち話し合ったり、どうしたらいいか決めることに時間を浪費したりしている場合もあるかもしれない。

自分の考えも、相手の考えも、皆で決めたことも、みんな人間(自分、自分達)の感覚で、そう思ったり、そうしようとしてるだけのこと。
「こうするのがいい」、「こうするのが当然」、「こうしなければならない」、「決まったことだから」、「そんなこと出来る訳ない」・・・みんな自分の感覚・・・。
その自覚から、自分が解放されていくのだろうし、そこをベースに、何にも縛られない、解放された状態に成り合っていき、解放された人達で、どんどん進歩・発展していける、自由闊達の地を描き、実現させていきたいものだ。
職場解放区を考える | - | -

「社会」について、あれこれ・・・

(人間)社会とは、どういうものかと考えてみると、人間が集り、その人間の価値観や社会観などで作り出される人間の集団の関連・関係のことを言うのだろう。
ということは、社会は人間の脳が作り出したものとも言えるかと思う。
といことは、社会のあり方を変えるのも、結局は一人一人の脳の変化の積み重ねだということも言えるのだろう。

人間社会というと、世界中のような範囲を指す場合もあるかもしれないが、日本社会というと日本という範囲での社会を指すだろうし、会社という社会もあるだろうし、二人の人が作り出す社会もあるだろう。
二人の社会といっても、それは周囲の社会の中に存在する二人の社会ということで、周りの影響ももちろん受けるだろう。
が、周囲の価値観と全く異なる価値観で、少数の人達が社会が営むことも出来得る。

社会は、そこにいる人が何を大事にするか、つまり価値観がどのようになるかによって、変わってくる。
つまり、そこの人達の人間観、社会観、仕事観・・・それらがどのようなものかで、その社会は変わってくる。

お金が大事、仕事の効率が大事、やるべき事があるという仕事観、そういう観方の人が作る会社は、そういう社会になる。
日本の社会は、概ね上記のような価値観の人が多いのだろうから、そういう社会なのだろう。
が、そういう中でも、元の心の状態・・・などに重点を置く人達が作る会社は、今の日本の社会とは全然異なる社会実態、社会気風が現われてくるのだろう。

お金や、法律や、規則や、常識なども、みんな人間が作り出したもの。
実態のないもの。
本来、ないものだから、いつでも変えれるもの、見直せるもの。

人間の観念の正常化は生涯学究制で。
人間の社会の正常なモデルは、アズワン活動の中で。
先ずは、”一つ”の社会のモデルを作ることで、言葉や観念で表現していても分からなかった実態が触れて感じ取れるようになるのだろう。そうなると、言葉で指し示す実態が実在することにより、理解できる人が増えてくるのだろう。
実態が無い言葉は、何を指し示すのかが不明確で、各自の捉え方になってしまうが、指し示す実態があると、各自はその実態から理解できるようになっていくのだろう。
”一つ”の社会モデルが実在することの大きさを思う。

自分がどういう価値観、考え方で、考え行っているのか、自分の実態を知り、本来の人間の姿(人生の正態)を知り、そう成り合いつつ、真の人間向きの社会を作り出す。
規模は小さくても、先ずはモデルを一つ作り出すことから。
職場解放区を考える | - | -