内観 考察メモ③

自分や、周囲の人に対しての客観視・・・

父母や兄弟や配偶者などに対する自分を、年代順に三項目で調べていくことにより、自分の育ってきた実際の姿が浮かび上がってくる。
その中で、色々な場面がくっきりと思い出されてくるのだが、母が何かを言っている姿が見え、それを聞いて反応している当時の自分の姿も見える。そして、その時の自分の心の状態も、思い出されてくる。
それを観ているのは、今の自分・・・。

今の自分が、当時の自分の心の状態を見てみて、様々な状態が観えてくるのだが、あまり自分でも認めたくないような、利己的な心や、虚栄的な心の状態がだんだんに見えてきたりして、そんな自分が情けなくなったり、恥ずかしくなったり、愕然としたり・・・。
ちゃんと調べておかないと、自分のことをよく思われたい、思っておきたいというような心理作用が働くのだろうか、ちゃんと自分のことを捉えておらず、願望的な自分像を勝手に作り出してしまっているのかもしれない・・。
よく調べてみると、まぁ、こんな程度の(というよりは、感想としては、こんなにもひどい・・・)自分だったのか・・という驚き。
ひとかど、ちょっとはましに生きてきたかと思ったけど・・・。
ま、そこが認められると、肩の荷が降りて、楽になれるけど。

また、当時はまったく考えれなかった父や母の立場や心情が考えられたり、推察されてきて、共感したり、理解できるような気持になってきたりするのも新鮮だった。
(これは、あくまでも、今の自分が、その場面を思い出す中で、当時の父や母の心中を察するだけで、そうかどうかは分からないのだが。このへんが思い込みになると危ないので、検べる要素が要るが)
言っていることや、してくれたことは、今考えてみても、どうかなと思うような内容でも、それをしてくれようとした心情みたいなものが理解できるようになる。きっと、こんな気持でやろうとしてくれてたのかなぁ・・という感じで。
客観視できることで、当時の人間関係の枠組みから離れて、その時の状態を眺められ、その人の心情や、状況や立場を理解できるようになるのだろうか・・・。
近くの人に対しては、親以外でもそうなのだろうが、自分の気持や感情が強くなったり、自分の都合で物を見たりする傾向が強くなるのか、相手の気持や立場を理解せず、不足感や不満に思う場合が多々あるようだ。
自分を見つめ、実際にあったこと、実際の相手を見ることで、客観的に見ることができるようになる。そうすることで、理解、共感が無理なく出来るようになる・・・そんな作用があるようだ。
生涯学究制と内観法について | - | -

内観 考察メモ②

人間関係として近い存在の人に対する自分を調べるということ。

内観では、先ずは母親から、そして父親へ、そして自分の身近だった人について、その人に対する自分を、三項目で調べていく。

内観してみて、そういう近い人との人間関係から、自分の基本的な人間観、人間関係の基本が形成されていると思った。特に母親、父親、兄からの影響は、すごいものがあることを感じた。
そして、それは今まで、全然省みることなくきた面が多々あったと思う。他の検討機会で浮き彫りになった面は、検べることで転換したり、根拠の無いことが観えたりして、溶けていったりしたものもある。
が、無意識的に自分の中に根を張って、あたかも自分の性格や、そういう性質だと思い込んだりしてきたものもたくさんあることに気付いた。
それが母や父に対する自分を調べることで、なぜ、そうなってきたかと自分を見直せることで、「性格でもないんだな」と外れるものもあり、今後の人間観、人生観に大きく変わっていく出発点になりそうだとも思った。
自分の人間観の根になる部分を、何となくの印象や、根拠の無い思い込みで、それを自分だとしている間違いを、一度明るみに浮かび上がらせて、どうだったのか、と直視し、調べる機会は、大事なのではないかと思う。

また、親から世話されてきたというものは、自分の中で、当然視してきたことが殆どで、このような機会でもないと、なかなか気付きにくいものかもしれない。
母親が、いろいろしてくれたこと、例えば、食事を作ってくれたり、洗濯してくれたり、いろいろ買ったり、用意してくれたり・・・そういうことに対して、その実際のことは、何となくは感じてはいても、殆ど自覚がない。
そして、どちらかというと、してくれなかったこと、不足に思ったこと、不満に思ったことが、自分の印象としては強く、大きく残っていく。
実際を調べてみると、実態としては、圧倒的な事実として、世話になったことだらけの中で育った、育ててもらった自分の姿が見えてくる。して返したことなど、殆どまったくない自分の姿も。そして、そんな実態を知らない自分が迷惑をかけたり、心配させたりして(このへんは、それがどういうことか、ということの検討は、別途要ると思うが)、それでも全然それに気付いていない自分であったり・・・。こういう自分の育ちの実際、実態を知っていく作業というのは、人間として必要な要素ではないかというのは思った。

食事時に流れるテープの中でも、郷土史や日本史や世界史を勉強するのはなぜか?という話があって、社会史は知っていても、自分史を知らないのはどうなのか?という話もあったが、自分の成り立ちを一度、事実に沿って検証しておく、親が子を育てるなど、当たり前としていることも、一度その実態を客観的に知ろうとするとすることは、人格形成にとって大事なことだと思うようになった。(自分には、そこが欠けていたなぁと思う)

今日は、ここまで。
生涯学究制と内観法について | - | -

内観 考察メモ①

自分の過去を振り返ることで・・・

内観研修では、半畳ほどのスペースに籠もり、今までの自分を調べる。
先ずは、母に対して、年代順に、
①お世話になったこと
②して返したこと
③迷惑をかけたこと
の三項目で、調べていく。
母が終わると、その後、僕の場合は、父、兄、元の妻、みゆきの順で、この三項目で、年代順に調べていった。
その後、嘘と盗みということで、年代順に調べてみた。
その後、もう一度、母、元の妻、みゆき、父と調べて、一週間が終わった。
調べる対象などは、一人一人違う。自分に近い人を調べていく。
特に近い、父母や配偶者などは何回も調べていくようだ。

一度目、母について調べてみた時は、なかなか過去のことが思い出せず、眠くなったり、集中力が途絶えたり・・・
それでも、次第次第に集中してきて、結構色んなことを思い出し始める。
先ずは自分の印象・イメージから連想される母の姿が思い出される。口うるさい、がみがみ、時間に超厳しい、超固い・・そんな場面の数々・・・。
が、これは、母の姿の方の想起で、「内観」ではなく、「外観」ということになるらしい。
母の姿ではなく、「母に対する自分」を調べるのだと、食事時に流れるテープでの内観創始者の吉本伊信さんの話で、気付く。
「お世話になったことは?」と焦点が合い始めると、自分のイメージではなく、「実際どうだったんだろう?」と頭が働き始める。
そうなると、「そういえば・・」という感じで、実際に世話になった場面などが次々と思い浮かび始める・・・。
それだけでも、イメージで見ていた母の像が崩れ、母に対する固い気持が溶けてくるのが感じられてくる。

二度目の母に対する内観をしていると、集中力も増してきて、どんどん色んな場面がくっくり浮かんでくる。
一回目は、世話になったことというのでは、ご飯を作ってもらって、弁当も作ってもらって・・・という感じで、概念的な感じだったのが、二度目では、ご飯を作ってくれている場面がありありと見えてくる。(餃子を包んでくれているところとか、弁当の包みとか・・・)
そうなると、毎日毎日・・・こうやってご飯を、弁当を・・・作ってくれてたんだなぁ・・・。そういう中で、野球や勉強をしてたんだなぁ・・・。当時の自分は、全然そんなこと、これっぽっちも感じてなかったなぁ・・・と、観え方が変化してくる。
自分が大きかったのが、段々に小さくなるというか、どういう中に自分がいたのか、そこで自分がどんな意識だったのかが、客観的に観えてくるし、そんな当時の自分の姿を、今の自分から見てみると、情けないような、恥ずかしいような、そんな心持にもなってくる。
そして、自分がして返したことが、ほとんどまったくないという事実にも、驚くというか、愕然と気付いてしまう。そんな自分だったのか・・と。

身近な人や、嘘のことなどを調べていき、段々過去の自分の姿がくっきりと浮かび上がってくると、僕の場合、4日目の夜に、忘れていたというか、記憶の底に沈んでいたようなことが、次々と思い出されてきて、寝れなくなってしまって、夜中も内観を続けていた。
途中で、自分を見ることに対する強い抵抗感も出てくる。いやな思い出というか、忘れてしまいたいようなことが思い出されてくる。そこを見ようとするか、逃げるか・・・。面接者の人は何も言わないわけだし、自分次第。
ここは、やっておかねば・・という強い意志が出てきて、自分を見続ける。見たくない自分の姿を直視することなり、相当な疲労も覚えたが、そういう自分が素直に見れるようになり、非常に楽になる感覚。
ずっと忘れていた、というか、避けてきた、宿題のようなものを、やっと手がけられた感覚があった。そして、自分自身が背伸びしないで、そのままの自分で、楽にやっていけそうな感覚になった。
過去の記憶などで、無意識の中の、暗い世界に沈みこんでいたものが、明るい世界に引っ張り出されたような感じ。
研鑚会で検べようという意欲でも、思い出せないこと、無意識的にしまい込んでいることは出てこない場合がある。こういうことが浮かび上がってくるというのは、一つ面白い体験だった。

過去の自分を、三項目で調べていくと、実際に起こったこととが観えてくる。そのことが観えてくると、自分の印象や捉え方がはずれ、そのことから、観え方が変わり、その人に対する気持、感情も変わっていくという作用があるようだ。
また、その時の自分がどんな姿だったかが客観視できることで、自分の実態が見えてくる、そこから自分が省みられるものが大きい。

今日は、ここまで・・・。
生涯学究制と内観法について | - | -

内観 考察のための枠組みメモ

1週間の内観研修行ってみて、いろいろ思うことがある。
考察していきたいが、今日はまず、そのための枠組みをメモ。

自分の過去を振り返る。
印象・イメージから、実際の自分を調べる。
自分を見ることに対する抵抗。
実際に起こったことと、その時の自分を客観視する。
その意味と、観え方の変化。

人間関係として濃い関係の親兄弟、祖父母、親戚、配偶者などに対する自分を、調べることの意味。
そういう近い人との人間関係から、基本的な人間観、人間関係の基本が形成されているのではないか?

自分を見ることの出来る要素。
環境的要素・・感覚遮断。
話す事の意味
意欲
焦点
期間

面接者の態度、あり方
その人に内在する人間本来あるものに対する信頼
その人に任せる態度。
全て受け入れる態度。評価なし。
その人が調べていける方向性。
調べた結果に重きを置かないで、調べていくこと自体に。

内観研修の方法面についての考察
テープの活用
しゃべらない環境
匿名性
施設面、暮し面
面接、面接者

自分を見る視点の検証は?
観えてきたことの検証は?
調べれる要素はどのようにしたら・・・?
常識的要素で納まらないには?
観えたこと、変化したことを持つのでは・・・

調べれる状態になるということはどういうことか?
自分を知るとはどういうことなのだろうか?
育ちの中にあるものの再考、見直しの大切さ。

生涯学究制の中での位置付け。
過去の自分を調べるという要素。
方法面としての位置付け。
生涯学究制として取り入れるなら、どういう方法で。
実施についての一案。

その他・・・その他・・・
生涯学究制と内観法について | - | -

生涯学究制の充実に向けて実験・研究

2月2日の「生涯学究制 構想メモ」の中でも触れたが、生涯学究制の中で、学究の前手というか、検討できる状態になるための基礎的な場を研究し、実施していけるようにもっていきたいと思っている。

以前、よくあったことだが、長期の検討機会で、自分を見つめる中で、育ちの過程などで傷ついた心の部分が浮き彫りになる人が出て、その人がそこを出さずにはいられず、そのことを吐露するような場面がある。1時間とか、長い時は、3時間くらいにもなったりすることもあった。
その人にとっては、出せたことの開放感はあるのだろうが、それだけで心の傷か癒され、整理され、検べれる状態になるわけでもないのだろう。一方、他の参加者は、その間じっと聴くことで、共感したり、一緒に考えたりすることもできるのだろうが、自分のことは検べられる機会ではなくなってしまう。
心の傷になっている部分、冷静に考えれないような部分、病的になっている部分については、別途、専門的に手がけないと、本人も、周囲の人も、中途半端になってしまうのではないか、という問題意識は、ずっとあった。

また、「本当はどうか」と探っていくためにも、その前手に、そういう部分を解決しておかないと、「本当は」と考えていこうとしても、どうしても心がついていかないというか、無理な心の状態になるというのも多々あるようだ。

生涯学究制が、会員申し込みを始め、単発的に合宿コースに参加するというものから、生涯を学究生活で送っていくという制度であるということがはっきり位置づけられる中で、そのような心の傷というような部分を解決していける場が、生涯学究制の中で必要だということが浮き彫りになってきた。

そういう分野を手がけるということもあり、明日から一週間、奈良にある大和内観研修所に行ってくることにした。

一週間、一人で自分に向き合い、自分の過去の歴史を
(1)お世話になったこと
(2)して差し上げたこと
(3)ご迷惑をかけたこと
この3つの観点から調べていくという場らしい。

自分自身も、そこに研修生として、自分の成育歴を純粋に検べてみようと思っている。
そして、自分を実験台にしてみたいと思う。
その上で、先ずは二人の実例を元に、自分の成育歴を検べるということの意味はどういうことなのか、また、そこを検べるテーマとして、この三つの問いはどうなんだろうか、とか、その検べ方についての方法はどういうのが適切なのか、などを研究する材料にしたいと思う。
生涯学究制度の中で、そういう要素が、どのように位置づけられ、どのような機会を設けていくのがいいのかを検討する材料にしていきたいと思う。
内観研修も、生涯学究制度のプログラムの一要素として取り入れられるのか、または、自分達で長太会場を使って、そのような要素を取り入れた新しいプログラムを開発していくのか、また、併用していくのか、それらも、帰ってきてから、色々な角度で検討していきたいと思っている。
生涯学究制と内観法について | - | -