研鑽 と 盲信

山岸会・特講・研鑽学校・ヤマギシ、でやってきたことは、
正しく本当であろうと思われる人間や社会のあり方・考え方・生き方等を調べて実践することで、
そういうことをひっくるめて、「ヤマギシズム」とか「研鑽」と呼んでいたように思う。

しかし、本当を見つけ出して実践することが、「ヤマギシズム」や「研鑽」ではなく、
「ヤマギシズム」や「研鑚」によって、本当を見つけ出し実践することだと思う。

この差異は大変なもので、「ヤマギシズム」や「研鑽」の根幹を外したまま、「ヤマギシズム」や「研鑽」をやっているつもりでいた、ということにもなる。

自分が本当だと思ったことを実践する。
このことが既に「ヤマギシズム」や「研鑽」から外れているとも云えるだろう。
自分の考えによる自覚のないキメツケ、信じ込み「盲信」が、ベースになっている。
研鑽会で満場一致になる場合は、自分の考えを盲信(盲信=自己盲信)するひとりひとりによって、一つの決定が下されていることが多いのではないだろうか。
自分で良いと思ったことやるのは独走で、みんなで良いと思ったことをやるのは集団暴走行為だと思う。

キメツケているという自覚はなくとも、自分の考えで良いと思うことに重きを置く盲信者が、いくら寄って話し合っても、集団盲信を膨らますだけ。

「ヤマギシズム」とか「研鑽」という言葉は随分使ってきたが、その根幹を全く知らないでいるのかもしれない。
自分の考えで、信じることも、疑うことも、批判することも、裁くことも、できないのが当然で、そういう根幹なしに、「真目的を目指す」とか「あれが本当」だと裁いていては、小集団化して、反感・対立・壁ができるのも当然だと思う。

自分の考えを信じてキメツケる、盲信体質に一刻も早く気づいて、
気づいた人から、研鑽体得の道をゼロから、歩みたい。
< 精神革命 > | - | -

心の健康メモ10

自分を知るための能力、智慧を開発すること。

第一段階として
・自分(人間)が思ったり考えたりしている内容は、あくまで自分(人間)が捉えたものであるということの自覚。好きなもの、嫌いなものというのと、好きだと思っている、嫌いだと思っているというのと。日常的にはこういう基本的なことも混同している場合が少なくない。
・人間の認識や判断能力の限界についての自覚。

この自覚があって初めて、「自分は今こう思っっているな、で事実はどうなのかな?」と行けるのだろう。(心の健康メモ1参照)

この能力の開発により.......(自分でもやりかけなので、感想とちょっとした予感も含めて)

自分の意見が大きくならず、突っ張れなくなる。
考えで決めつけられないという自覚につながる。
思いが妄想に発展しなくなる。

自分と思っている自分と、本当の自分とのちがいが明らかになり、
自分のものと思っているものと、そのものとのちがいも明らかになる。

思っていること、考えていることのプロセスを観察し把握することで、それが常に変化し固定できるものではないことが明らかになる。心が反応している対象を観察することで、すべてのものは固定することができないことが明らかになる。

今まで見過ごされていた心の反応に気がつくようになり、今まで目に入っていても見えていなかったことに気づくようになり、今生きているこの世界と心の間に「私」という概念が入り込まなくなる。自分を知ることは世界を知ることであり、世界と連動する私という実態。

まずは自分を調べるプロセスを体験し、いろんな角度から繰り返すことで、調べるプロセスを体得すること。焦点は調べた結果ではなく、調べるプロセス・能力。日常の中でも自分の心の状態に目を向け、心を健康に保つために、異常をキャッチし間違いを除去できるようになること。
心の健康メモ | - | -

心の健康メモ9

心の面の異常・間違いはどこで発生するのだろうか?

うそをつくことが間違い?人を傷つけることが異常?そのこと自体もあるかもしれないが、もっとその前がありそうだ。なぜうそをつくことになったのか?なぜ人を傷つけることになったのか?その人はどういう状況で何を見て、何を聞いて、どう感じて、どう考えて....という実際の過程・プロセスがあるだろう。そのどこかに間違いの原因がないのだろうか?

現象と人間の心をつなぐ認識のプロセス。そのどこかの段階で間違いが入り込むことがあるのだと思う。そのプロセスの詳細についてはここでは省略する(自分で観察する必要がある)が、間違いが入り込めば心に異常を来たし、そういう心の状態での行為は異常といえるだろう。間違いが取り除かれれば、心は健康を取り戻し行為も正常になる。喜んだり、不安になったり、明るくなったり、暗くなったり。いったい何に反応して、どういうプロセスでそこに至ったかを調べて知るための能力をつけることが必要。またその人の能力だけでなく、社会的にも間違いや異常を発見する機能を持つ仕組みも必要だろう。 (つづく)
心の健康メモ | - | -

心の健康メモ8

心と体の健康に焦点を当てた日常生活とはどんなものだろうか?

体と同じように、心についても、ちょっとした変化に気づくほど常に意識を心に向けているのだろうか?
様々な出来事に対して、見たり聞いたりして捉えているわけだが、その一つ一つについて心がどう反応しているのかを常に見ているのだろうか?
自分に向かい合うといっても、そういう時間を持つとかではなく、常に自分の心に向かい合っている状態で生きているということだろうか?

今の自分は、あまりにも心に向かい合っていない日常だからか、一々そんなことするのはめんどうくさいと思ったりもする。でもそう思うのは、もしかしたら自分の心の状態をキャッチする能力を今まで発達させてきていないからかもしれない。体とか現象に対しての能力はけっこうつけてきているが。社会的にも心に向かい合う能力というか、智慧の開発に焦点が当たってはいなかったのだろう。

今、その必要性を感じる。というのは、心が健康になるためには、心の異常、間違いをキャッチする必要があり、そのためには自分の心の状態を常に把握している必要もあるから。異常・間違いに気づいたら、その原因を見つけて取り除くという智慧による作業を行って、正常な状態に戻すこと。体についても心についてもそういう意識と智慧を持って日常を暮らす。 (つづく)
心の健康メモ | - | -

心の健康メモ7

健康に健やかに暮らしていきたいと誰しも願うことだろう。幸福な人生像と重なってくる。でも願っているからそういう暮らしができるかといえば、実際はそうでもない。もっと深く焦点を当てて考えてみたい。

繰り返しになるが、健康の意味は体と心の状態が良いこと。国語辞書の意味もそうなっている。体については、毎年健康診断を受け、様々な検査によるデータを分析して異常の早期発見に努めている。食事内容にも気をつけ、ヘルスメーターに毎日のようにのって太りすぎ、痩せすぎをチェック。数値化されない体の微妙な変化にも関心が高く、ちょっと調子が悪いな、疲れ気味だな、熱っぽいななどと敏感に感じ取ろうとしている。異常に気づけば、すぐに原因を考えて気をつけるし、場合によっては入院し治療に専念したりもする。

一方、心の面についてはどうだろう。体の健康に気をつけるほどやっているだろうか。頭では心の健康の大切さは理解しているつもりだ。しかし毎日の生活の中で、体ほどの関心は持っていない実態に気づく。なぜだろう?やはり焦点が合っていないのだろうか?それとも具体的に何を気をつけたらよいか、方法がわからないからだろうか? (つづく)
心の健康メモ | - | -