【 土曜 研究会 】

例えば、ゲームを楽しんでる時に、
「その手はマズイ! もっとこうしなきゃ! あそこはこうだ!」・・・と、
横からイチイチ口を出されるのはウルサイよね。
人がゲームを楽しんでるのだから、それに口を出さないで、自分で他のゲームをやればイイじゃん!

アズワンコミュニティを知って、初めはイイ!と思って、暮らし始めた人が、しばらくすると、「あれはおかしい! ここはこうすべきだ!」と、いろいろ言い始める。
それなら、自分が思う通りのコミュニティを、自分でやればいいじゃんねぇ。。。

ここが、旧来の組織や団体と全く異なるところ。
「一緒にやらんならん」何ものもない。やってもやらなくても、どちらでもいい。
ひとりひとりの意志の集まり、それでバラバラになるなら、それまでのこと。
同調の人によって一致した分だけ できていくのだから、あえて、意志や意見を一致さそうとする必要がない。
「話し合いが大切」というのも「話し合わなければならない」というものではない。
話し合いたくなければ、話し合わないだけのこと。
旧来の常識観だと、こんな簡単なことが通じない。

「こうすべきだ! 運営はこうあるべきだ!」と、自分以外の他を動かそうとする。
正義感や熱意が強い人ほど、「良いことしてる」つもりで、他に強要している自覚がない。
「アズワンコミュニティはこうあるべきだ!」と、内からも外からも強いられる筋合いは何もない。
「一緒にやる」という根本的なベースが問題。
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【 土曜 研究会 】

≪ 社 会 を 創 る ≫ このことが通じるか、どうか、が先ずポイント。
 (社会を変えるのではなく、社会が良くなる活動をするのでもなく)

「社会を創る」には、先ず、知らず知らずの内に形成されている「人間観」「社会観」に着目。(これが特に重要。人間観・社会観の詳細は別途)

「人間を知る」「社会を知る」は、それぞれの知性の作用によるもので、そうできるような機構や方法(サイエンズスクール 等)が重要だけど・・・、
「人間や社会を調べて、本来こうなんだ」と知っても、それは頭の中のことで、自分で自分の「人間観」「社会観」が、そうなるものでもない。

「社会を創る」ということは、旧来の社会ではない新しい「社会を創る」ことだから、幼い頃から身に付いた「人間観」「社会観」が変わらないと、「社会を創ろう」としてもできない。
「人間を知り、社会を知る」ことも大事だけど、それに適った「人間観」「社会観」が、その人の中に形成されることが更に重要不可欠。

従来のやり方では、個々の意識や努力や精神論、つまり、個々の「頭や心の問題」にしていることが多い。(社会ができない要因)

創ろうとしている(願っている)社会に適った「人間観」「社会観」が、個々の中に形成されるような環境要素・人的要素・仕組み・気風・方法。
   【 サイエンズ 】 による 【 アズワンコミュニティ 】
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【 土曜 研究会 】

「社会の根幹は人と人」っていうことは重ねて言ってるんだけど、
今の世の中、そこに焦点を当てるということを、殆どの人が分からない。
そういう体験がないからだろう、知る機会がなかったんだろう。

「人間関係が大事だ」と思っていても、
「組織や活動がメイン」で、「そのための人間関係」という程度なんだろう。
「組織や活動」に支障がなければ、「人間関係」を問題にもしないのだろう。
「人間関係」の問題がないと、「人間関係は悪くない、問題がない」としている。

「組織や活動」をやる前の、先ずその根幹となる「人と人」という観点がない。
「問題がなければいい」という程度で、「人と人」についてのビジョンがない。

人間社会、人間の活動、何をやるにも、先ず、「人と人」
それを「メインに据える」ということは、言葉や文字では会得できないだろう。
実際に、「人と人」に焦点を当て、メインに据えた組織や活動を観て体験してもらうことかな。
そのために、アズワンコミュニティを、もっともっと、活用してもらえるように。
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【 土曜 研究会 】

アズワンコミュニティで「実現しようとしているもの」は、何なのか。
果たして、それが普遍性のあるものなのか。先ず、それが一番の課題。

「そんなことが実現できればイイけど、無理でしょう。」
・・・と、「実現しようとしているもの」そこまで理解され賛同されれば申し分ないね。

そこからが、サイエンズ、アズワンコミュニティの本領だね。
「そりゃぁイイけど、無理でしょう。」と、誰もが思うことに対して、
ホントに無理か、どうか。できないとしたら、なぜできないのか?
「無理だ、できない」としている要素を一つ一つ 調べていくと、
一足飛びには行かないけれど、一つ一つ 要素をそろえていくことができる。

前に「内在する対立感情」という表現をしたけど、
もっと焦点を絞っていくと、「無意識の隔て」という課題になった。
これは、「人の問題だけど個人の問題ではない」 社会によって植えつけられたもの。
これの「自覚」と、解消していく順序やステップと、そのプロセス。

要素を見出し、方法を試み、させようとしないで、
その人その人に応じて・・・、でも留まることなく・・・。
すると・・・、そんなに難しくないことも見えてくる。
ふと、気がつくと、少しずつ実現している。
それによって、「無理でしょう。」と言ってた人も、
「へぇーっ、そんなことができるのか。」と、見方が違ってくる。

「できるわけがない。無理でしょう。」は、反論ではなくて、励みになる協力の声だね。
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【 土曜 研究会 】

「人間の考えであるとの自覚」の研究と解明によって、約8年前から「自覚」についてのアプローチの仕方も進化してきた。
それによって、「自覚のない自分の状態」が続々と見出されて、見出されたら、「自覚」についての自発的な欲求が生じて、自ら進んで行く。

隔てや囲いのない「一つの世界」を頭で理解しても、「一つではない人(自分)の内面の状態 ・ 組織の状態 ・ 社会の状態」については、漠然とそう思う程度で、焦点が当たるところまで行っていない。
このことは、「一つであるという人(自分)の内面の状態 ・ 組織の状態 ・ 社会の状態」が、まだまだ鮮明じゃないからだろう。
「一つであるという状態」が明らかでないまま、いくら「隔てや囲いのない状態」を目指しても、現状の改良程度で、「一つ」を指向しているとは言えない。
つまり、日常の実際の中で、「一つでない状態」が目立つぐらいに、見出されるというところまで核心をついていない。見出されたら、自ずから「一つ」を指向して、「一つではない要素」を取り除いて進んで行くだろう。

サイエンズでいう「本質的」とは、「内面の状態」のことだから、「人(自分)の内面の状態 ・ 組織の内面の状態 ・ 社会の内面の状態」に焦点が当たるように・・・の研究が、これからの課題だね。
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