2014.02.23 Sun
例えば、ゲームを楽しんでる時に、
「その手はマズイ! もっとこうしなきゃ! あそこはこうだ!」・・・と、
横からイチイチ口を出されるのはウルサイよね。
人がゲームを楽しんでるのだから、それに口を出さないで、自分で他のゲームをやればイイじゃん!
アズワンコミュニティを知って、初めはイイ!と思って、暮らし始めた人が、しばらくすると、「あれはおかしい! ここはこうすべきだ!」と、いろいろ言い始める。
それなら、自分が思う通りのコミュニティを、自分でやればいいじゃんねぇ。。。
ここが、旧来の組織や団体と全く異なるところ。
「一緒にやらんならん」何ものもない。やってもやらなくても、どちらでもいい。
ひとりひとりの意志の集まり、それでバラバラになるなら、それまでのこと。
同調の人によって一致した分だけ できていくのだから、あえて、意志や意見を一致さそうとする必要がない。
「話し合いが大切」というのも「話し合わなければならない」というものではない。
話し合いたくなければ、話し合わないだけのこと。
旧来の常識観だと、こんな簡単なことが通じない。
「こうすべきだ! 運営はこうあるべきだ!」と、自分以外の他を動かそうとする。
正義感や熱意が強い人ほど、「良いことしてる」つもりで、他に強要している自覚がない。
「アズワンコミュニティはこうあるべきだ!」と、内からも外からも強いられる筋合いは何もない。
「一緒にやる」という根本的なベースが問題。
2014.02.09 Sun
≪ 社 会 を 創 る ≫ このことが通じるか、どうか、が先ずポイント。
(社会を変えるのではなく、社会が良くなる活動をするのでもなく)
「社会を創る」には、先ず、知らず知らずの内に形成されている「人間観」「社会観」に着目。(これが特に重要。人間観・社会観の詳細は別途)
「人間を知る」「社会を知る」は、それぞれの知性の作用によるもので、そうできるような機構や方法(サイエンズスクール 等)が重要だけど・・・、
「人間や社会を調べて、本来こうなんだ」と知っても、それは頭の中のことで、自分で自分の「人間観」「社会観」が、そうなるものでもない。
「社会を創る」ということは、旧来の社会ではない新しい「社会を創る」ことだから、幼い頃から身に付いた「人間観」「社会観」が変わらないと、「社会を創ろう」としてもできない。
「人間を知り、社会を知る」ことも大事だけど、それに適った「人間観」「社会観」が、その人の中に形成されることが更に重要不可欠。
従来のやり方では、個々の意識や努力や精神論、つまり、個々の「頭や心の問題」にしていることが多い。(社会ができない要因)
創ろうとしている(願っている)社会に適った「人間観」「社会観」が、個々の中に形成されるような環境要素・人的要素・仕組み・気風・方法。
【 サイエンズ 】 による 【 アズワンコミュニティ 】
2014.02.01 Sat
「社会の根幹は人と人」っていうことは重ねて言ってるんだけど、
今の世の中、そこに焦点を当てるということを、殆どの人が分からない。
そういう体験がないからだろう、知る機会がなかったんだろう。
「人間関係が大事だ」と思っていても、
「組織や活動がメイン」で、「そのための人間関係」という程度なんだろう。
「組織や活動」に支障がなければ、「人間関係」を問題にもしないのだろう。
「人間関係」の問題がないと、「人間関係は悪くない、問題がない」としている。
「組織や活動」をやる前の、先ずその根幹となる「人と人」という観点がない。
「問題がなければいい」という程度で、「人と人」についてのビジョンがない。
人間社会、人間の活動、何をやるにも、先ず、「人と人」
それを「メインに据える」ということは、言葉や文字では会得できないだろう。
実際に、「人と人」に焦点を当て、メインに据えた組織や活動を観て体験してもらうことかな。
そのために、アズワンコミュニティを、もっともっと、活用してもらえるように。
2014.01.12 Sun
アズワンコミュニティで「実現しようとしているもの」は、何なのか。
果たして、それが普遍性のあるものなのか。先ず、それが一番の課題。
「そんなことが実現できればイイけど、無理でしょう。」
・・・と、「実現しようとしているもの」そこまで理解され賛同されれば申し分ないね。
そこからが、サイエンズ、アズワンコミュニティの本領だね。
「そりゃぁイイけど、無理でしょう。」と、誰もが思うことに対して、
ホントに無理か、どうか。できないとしたら、なぜできないのか?
「無理だ、できない」としている要素を一つ一つ 調べていくと、
一足飛びには行かないけれど、一つ一つ 要素をそろえていくことができる。
前に「内在する対立感情」という表現をしたけど、
もっと焦点を絞っていくと、「無意識の隔て」という課題になった。
これは、「人の問題だけど個人の問題ではない」 社会によって植えつけられたもの。
これの「自覚」と、解消していく順序やステップと、そのプロセス。
要素を見出し、方法を試み、させようとしないで、
その人その人に応じて・・・、でも留まることなく・・・。
すると・・・、そんなに難しくないことも見えてくる。
ふと、気がつくと、少しずつ実現している。
それによって、「無理でしょう。」と言ってた人も、
「へぇーっ、そんなことができるのか。」と、見方が違ってくる。
「できるわけがない。無理でしょう。」は、反論ではなくて、励みになる協力の声だね。
2013.12.29 Sun
「人間の考えであるとの自覚」の研究と解明によって、約8年前から「自覚」についてのアプローチの仕方も進化してきた。
それによって、「自覚のない自分の状態」が続々と見出されて、見出されたら、「自覚」についての自発的な欲求が生じて、自ら進んで行く。
隔てや囲いのない「一つの世界」を頭で理解しても、「一つではない人(自分)の内面の状態 ・ 組織の状態 ・ 社会の状態」については、漠然とそう思う程度で、焦点が当たるところまで行っていない。
このことは、「一つであるという人(自分)の内面の状態 ・ 組織の状態 ・ 社会の状態」が、まだまだ鮮明じゃないからだろう。
「一つであるという状態」が明らかでないまま、いくら「隔てや囲いのない状態」を目指しても、現状の改良程度で、「一つ」を指向しているとは言えない。
つまり、日常の実際の中で、「一つでない状態」が目立つぐらいに、見出されるというところまで核心をついていない。見出されたら、自ずから「一つ」を指向して、「一つではない要素」を取り除いて進んで行くだろう。
サイエンズでいう「本質的」とは、「内面の状態」のことだから、「人(自分)の内面の状態 ・ 組織の内面の状態 ・ 社会の内面の状態」に焦点が当たるように・・・の研究が、これからの課題だね。