2017.02.10 Fri
第一章 人間の考え 6 「良いこと」「悪いこと」
日常生活に大きな影響を及ぼしていると思うものに、道徳とか常識というものがあります。マナーとかモラルなどもこれに含まれるでしょう。法律や規則のように体系だって明文化されてはいなくても、子供の頃から躾けとか教育によって、道徳や常識を覚えていきます。
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日常生活において、「良いこと」「悪いこと」が占める位置はとても大きいです。できるだけ「良いこと」をして、「悪いこと」はしないようにする。行動の大きな基準になっているとも言えるでしょう。
それは、「自分が良いと思っているとの自覚」がなく、「良いこと」をやるのが良い、「悪いこと」をやるのは悪い、と思い込んでいるとも言えます。
果たして、「良いこと」「悪いこと」というものが実際にあるのでしょうか。あるとしたら、どこにあるのでしょう。
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「善・悪」の基準は、人間の考えによるものだと思います。普遍的な根拠はないと思います。
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「善・悪」は、人間の考えにすぎないと思います。
人間の考えといっても個人的なものではなく、多くの人が共通して考え、感じることによって、現実感、存在感が伴ってくるのです。「善・悪」もまた、集団による「観念上の事実化」の相乗作用によって生まれたものだと言えます。
『SCIENZ 5号 サイエンズ入門』より抜粋
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2017.01.29 Sun
第一章 人間の考え 3 事実・実際とは
◯ 記録 と 記憶
記録は人間(あるいは機械)が残したものであり、記憶は人間の中のことです。文字通り、過去の出来事を記したものが記録・記憶です。
A 過去の出来事 →→→ B 記録・記憶
記録・記憶は、過去の出来事によってできたものですから、記録・記憶によって、過去の出来事を知ろうとします。記録・記憶は過去の出来事を推し測ったり、知ろうとする材料にはなりますが、過去の出来事そのものではありません。記録・記憶に残っているからといって、過去の事実そのものとは言えないでしょう。
これは、記録や記憶が正確か不正確かということではなく、どんなに正確さを期した記録であっても、記録は記録であって、過去の事実そのものではないということです。
前項で写真を例に述べたのと同様に、いかに鮮明な写真であっても、色合いや形状などを知る手がかりにはなりますが、それも一部の情報であり、他は想像するしかないでしょう。色合いや形状なども実物を見ているのではなく、写真を見ているのだから、写真に映された色合いや形状を見ているのです。実物を再現しようとしているのでしょうが、実物を見ている訳ではありません。
では、記憶の場合は、どうでしょう。
一般に記憶はあいまいなものとされることが多いです。記憶よりも記録や物的証拠の方が過去を特定するには確かだとされています。しかし、鮮明な記憶があると、「記憶=過去の出来事」としてしまうことがあります。例えば、10分前にお茶を飲んだという鮮明な記憶があっても、それは記憶であって、過去の出来事そのものではありません。過去の出来事を「そのように記憶している」ということですね。
一つの出来事について、記録や記憶は幾通りにもなり得ます。十人いれば十通りの記録や記憶にもなります。
記録は記録であり、記憶は記憶です。過去の出来事を記録・記憶したものです。出来事そのものではありません。事実そのものでもありません。
『SCIENZ 5号 サイエンズ入門』より抜粋
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2017.01.20 Fri
第一章 人間の考え 3 事実・実際とは
◯ 相手がそう言ったのか、私がそう聞いたのか
人が言うことを、どんなに正確に聞き取ろうとしても、言った通りをそのまま聞き取ることはできません。
これは「言う」行為と、「聞く」行為を物理的に見ると明らかです。「言う」は声帯によって音声が発せられ、「聞く」は空気の振動を鼓膜等でキャッチします。「相手がそう言った」と捉えていることの実際は、「自分がそう聞いた」ということです。
これも、前項と同様に自分の感覚(聴覚)であるとの自覚があるか、どうか。この自覚がないと、「自分が聞いたこと」が、「相手が言ったこと」だとしてしまうでしょう。
「自分の感覚であるとの自覚」があると、「あなたはそう言ったじゃないか」と相手を指摘する人の姿が、いかに滑稽なものか察せられるでしょう。
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A 何かを →→→ 見た B(自分の中のこと)
A 何かを →→→ 聞いた B(自分の中のこと)
「見た」「聞いた」というのは自分の中のことです。
矢印(→→→)の左側 A と 右側 B は、関係はありますが全然別のものですね。「見たこと」「聞いたこと」は、自分の中にあるものですが、「自分の中のことであるとの自覚」がないと、それを事実・実際だとしてしまうのです。
A 被写体 →→→ 撮影した B(機械上のこと)
このような写真の例はどうでしょう。撮影したもの(写真)と被写体は、関係はあるが全然別のものですね。被写体は一つでも写真はいくらでも作れます。写真は被写体を知るための材料にはなりますが、被写体にはなり得ません。人を撮影した写真は人ではありません。写真はどこまでいっても写真ですね。
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個々の捉え方の違いであるとの自覚があれば、違う捉え方を否定することはできないでしょう。それぞれに、「自分が聞いたこと」が事実だと思い込み、キメつけているから、違う意見を否定したくなるのです。
今の世の中の争いごとの多くは、ここから来ていると思います。自分の感覚で聞いたこと、自分の感覚で見たことであるから、それぞれに違いがあって当然だと思いませんか。
『SCIENZ 5号 サイエンズ入門』より抜粋
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2017.01.11 Wed
第一章 人間の考え 2 自覚とは
リンゴの状態があり、部屋の状態があり、それを自分の感覚で「甘いリンゴだ」「汚れた部屋だ」としている。これは、「自分が甘いと感じた」「自分が汚れていると思った」というのとは大きく違うと思います。自分が思ったこと、感じたことを「事実だ」としている。何気ないことのようですが、そこに「事実だ」とする思い込みやキメつけがないでしょうか。
「自分の感覚であるとの自覚」がないことから来る思い込みやキメつけが日常生活の中でいかに多いか、自分や人の言動を観察すると面白いでしょう。
◯◯のラーメンは旨いとか、◯◯のお店は安い、◯◯さんは賢い、◯◯さんは働き者だ……。
「自分の感覚であるとの自覚」がない人は、客観的事実を言っているつもりかもしれません。
そうして、自分が甘いと感じたリンゴをすっぱいと言う人や、汚れていると思った部屋を綺麗だと言う人がいたら、その人をおかしい、間違っていると見なすのではないでしょうか。
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「自分の考えであるとの自覚」が生まれると、それまで「事実だ・間違いだ・良いことだ」などとキメている「自分の状態」に気づいたりします。そうすると、それは「自分」が見たり・聞いたり・捉えたことや、「自分」が思い・考え・感じたことなどであり、「自分」のことであることが明らかになってくるでしょう。
『SCIENZ 5号 サイエンズ入門』より抜粋
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2017.01.02 Mon
第一章 人間の考え 4 観念上の事実化
「思い込み」「キメつけ」という言葉を用いましたが、思い込み、キメつけようとしている訳ではなく、「自分の感覚であるとの自覚」がないために、自分が捉えたものを「事実」としている状態になってしまっているのでしょう。つまり、自分の中にあることを「事実だ」と思い込んでいる状態です。
これを「観念上の事実化」と呼んでいます。
甘いと感じると →→ 事実、甘いリンゴだ
汚れていると思うと →→ 事実、汚れた部屋だ
自分がそう聞くと →→ 相手がそう言った
自分がそう見たら →→ 事実そうだった
噂を聞くと →→ そのような事実があった
ニュースを見ると →→ そのような事実があった
温度計の値で →→ 実際の温度は○○度だ
速度計の値で →→ 実際の速度は時速○○キロだ
ものさしの目盛りで →→ 実際の長さは○○センチだ
記録があると →→ そのような事実があった
「自分が捉えたことが事実・実際だ」と思っている人は、事実・実際をよく見よう、よく聞こうとしないで、「思い主導」の行動になるでしょう。
安全だ、危険だ、安心だ、不安だ、儲かった、損した、景気が良い、景気が悪い、たくさんある、少ししかない、ほめられた、けなされた、好かれた、嫌われた、良かった、悪かった、成功した、失敗した……と、自分が捉えていることを「事実だ」として行動するでしょう。
『SCIENZ 5号 サイエンズ入門』より抜粋
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