内観にみる人間観4(嘘について)

 内観法の中に<嘘と盗み>というテーマが用意されていることは大きいことだと思った。人は誰でも一つや二つの嘘はついたことがあるだろう。いや、一つや二つどころではない。50年60年と生きてきたのであれば何十の嘘を、人によっては何百もの嘘をついてきたという人もいるかもしれない。嘘八百という言葉もあったような気がする。

 嘘という言葉の意味を知らない人はいないようだ。だいたい誰でも「自分は嘘ついたことがある」とは思っているようだ。それは身を持ってその言葉の意味を知っているということだ。

 もちろん嘘という言葉の意味は人それぞれ違うのだと思う。でも内観では「嘘とは、何か」という定義は抜きにして、その人の受け取りのままに、自分の嘘について調べてもらう。まずは「自分はどんな嘘をついたことがあるか」と幼少の頃から年齢を区切って調べていく。

 人によって少々の違いはあるにしても、ほとんどの人が記憶に残る時代、つまり小学校に上がる前後ぐらいには嘘ついた経験があるようだ。もちろん、その当時そういう自覚(嘘をついた自覚)があったかどうかは別で、「その当時嘘ついた」と思い出だすのも、今振り返ってみての捉え方だと思うが。ただ、例えば「親に何か嘘をついた」経験として、今の自分の記憶によみがえるのは、その当時の場面だけではない。その時の自分の心のうちもよみがえってくるのだ。心に何か残るものがあるからこそ、それが「嘘をついた」経験として自分の中によみがえってくるのだといえないだろうか。

 嘘というテーマは、自分の心の実際を見るためのテーマだ。もちろん心の一面のことだと思うが。さっき「嘘とは何か」という定義を抜きにして、各自の受け取りのままに調べるみたいなことを言ったが、それは、その人が嘘という言葉を手がかりに自分の心のうちを調べるといってもいいかもしれない。だから他の人が聞いたら「そういうのを嘘というの?」と疑問に思う人もいるかもしれないが、主眼は、どれだけその人が自分の心のうちを見れるかということだ。

・恥ずかしい、人に隠しておきたい、それで嘘をついた(恥の観念)
・それを言うと自分が損するから、嘘をついた(自己中心的・功利的)
・人に褒められたくて、よく思われたくて、嘘をついた(人の目を気にする)
・叱られるのが、怖くて嘘をついた(恐怖)
・仲間外れにされたくなくて、嘘をついた(不安)
・自分のプライドを傷つけられたくなくて、嘘をついた(自己保身)

 思いつくままに挙げたが、まだまだあるに違いない。もちろん内観で全部このように「何で嘘をついたか?」と調べるわけでもないのだが、その時々で嘘つく自分(の心)を見ていると、自分の心の実際(一面)が何か見えてくるようだ。良し悪しの観念の強い人は、途中目を背けたくなることもあるようだが、それでもそこを直視することで、自分の実質(心のうち)をもっと調べてみたいという意欲もわいてくる。

 嘘というものは言葉や行動にあらわれるのだが、その前に心にあらわれている。そのもとは、その人の人間観(心のありよう)に根ざしているように思われる。(言葉や行動の嘘←心の嘘←元の観念《人間観》・元の心の状態) 
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内観にみる人間観3

 ごく常識的な見方のような気もするが、人はまず親(身近な人)を見て<人を知る>のかと思う。親との関係でといった方がいいのかもしれない。
 
 ここでいう<人を知る>とは、<人とはどういうものかという人間観>がその人の中に形成されることとも言える。

 そういう人間観は、親をはじめとした身近な人と接する中で時間をかけてじっくりと形成されていくのだから、一度出来上がると中々変わらないような気もする。

 その人の人間観がどういうものかということは、端からみて簡単にこういうものだと特定できるものではないが、それは他の人に対する信頼(警戒)の度合いとかに強く現れるような気もする。また親に対する好きとか嫌いとかの思い方とか、人によっては「自分がこんな風になったのは親のせいだ」と思って、親を恨んだり憎んだりするケースもあり、そういうことも、その人の人間観と深くつながっているのではないかと思う。

 こんなこと書くのも自分の中に何の確証もなく、今の単なる思い付きで書いたが、とても不思議に思うことがある。

 長年かけて形成された人間観が、じっと座って自分の中を見ている(内観している)だけで変わっていく、これはなんとも不思議なことではないかと思った。他から何の知識を入れるわけではない。

 じっと座って内観することで親に対する印象が変わる。そして、その人の人間観も変わっていく。

 育つ過程で「親を見て<人>を知る」、そして、いつの日にか内観して、また「親を見て<人>を知る」ことになる。親の方は何も変わらないはずだが、<人>の中身が全然違ってくる。なんとも不思議なことではないか。何の知識を外から入れるわけでもないのに・・・
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内観にみる人間観2

・内観の中で母親に対する自分を調べるという場合の母親とは自分を産んでくれた母親だ。調べている間でも自分との関係の中での母というふうに見ている。これもしてくれた、あれもしてくれた、こんな迷惑をかけたな、とかいうように自分との関係で、いろいろなことがまずは浮かんでくる。そのように繰り返し調べているうちに、もう何十年も前のことなのに、その時の母が急に自分の身に迫ってくる感じがする。自分の内観体験の中でもそんなことがあった。でも、それは母の気持が分かったというようなものではなかったように思う。自分がどんなであろうと、絶えず自分に気をかけてくれる母という存在、その存在の大きさを知るといったらいいだろうか。その時には、単に自分との関係の中での母というものではなくなっているような気がする。母という人の存在がしっかりある、そんな感覚だ。そこで初めて、今まで母の気持を思いやろうともしなかった自分にも気付く。

・「両親に対する自分ということで調べているときに、兄のことも自分の中に出てきて、何か気にかかるから兄に対する自分についても調べてみたい」とある人が出していた。内観する人の多くが、両親に対する自分について調べて両親の存在の大きさを知ると、兄弟とか自分にとって身近な他の人の存在も何か気にかかってくるようだ。その人に対する自分を調べていると、あらためてその人の存在が自分に感じられてくる、そんな過程が内観体験の中にはあるようだ。自分との関わりの中で自分なりに作っていたイメージを超えた存在として感じられてくる。そうして初めて「その人はその時実際どんな気持だったのだろうか?」とその人の方に気持が向く。

・人の気持を推しはかるということもあるが、それ以前にその人の存在を知るということがあると思う。その人の存在を知るということは、その人にもその人の気持があるということを知るということだ。あたり前のことだが、この辺のことが抜けると、相手の気持を思っているつもりでも、いつまでも自分の思いの世界から抜けられない。 
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内観にみる人間観1

 内観法では、①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことの三つの観点で、自分が育ってきた過程における身近な人(両親・祖父母・兄弟・恩師・友人・近所の人など)に対する自分を、幼少のころから現在に至るまで年令を区切って調べていく。

 そのことは、三つの観点でもって、人との関わりの中で実際にあった具体的なこと(場面)をひとつひとつ思い起こして、そこをよく観て調べていくことというようにも言えると思う。ただ単に回想にふけるとか、自分の人生についてあれこれ思いめぐらすというのではない。人との関わりの中にある自分の人生の実際を順を追って具体的に辿っていくことだ。

 そういう中で、自分一人で大きくなったのではない、どれだけ多くのものを両親をはじめとして周囲の人から受けてきたか、自分の人生のいろいろな場面でどれだけ周囲の人に支えられてきたか、いわば人との関わりの実際を身をもって知ることになる。さらに言えば、周囲から受けているということを自覚し、また受けたものを具体的に知ることで、自分の生き方の方向性までも見えてきて、これからの自分の人生を描けるようにもなる。内観法はそのように仕組まれているように思う。(話を単純化しすぎてしまったきらいもあるが、ここではテーマを浮き彫りにすることが目的だから・・・)

「身体も心も物の考え方や能力も社会関連により両親を経て受け継いだものや、周囲から与えられたものに過ぎなく、幾多先輩の業績を継ぎ合せ、鶏や自然に教えられ、受けた頭脳で考察、発案し、組み合わせたもので、こうして全部社会・周囲から受けたものを、凡て社会に提供利用されることは、当然の帰結だとしています。」

 この文脈にも、受けていることの自覚と、その当然の帰結としての行き方(生き方)というものが窺える。この中で「・・・社会関連により両親を経て受け継いだもの・・」というあたりが目にとまった。そこには<両親を経て受け継いだ>と書かれている。

 内観体験では物にしても心(愛情)にしても直接<両親(等、ある特定の人)から受けた>という印象が強く残る。でも事の真相としては<社会関連により両親を経て受けた>ということではないかと思う。

 人(両親その他具体的な人)との関わりということを突き詰めていくと、それは(あくまでも具体的なこととしてある)社会関連ということになるかと思う。自分を知るということは社会関連の中での自分を知るということでもあると思う。そんなあたりのことを踏まえて内観法を捉え直してみたいという思いが最近出てきた。

 社会関連(社会原理?)を知るための、あるいはそのための前準備としての内観という位置付けも出来るような気もする。

 自分と親(ある人)との関わりを見る→親(その人)に世話になった→親(その人)の存在の大きさを知る→人の存在の仕方を知る→社会関連の中にいる自分を知る

 全部具体的なことを見て、そして具体的に調べることを通して知っていく。知っていく順序もあると思う。方法としても、内観→内観+研鑚という方向のものがあると思う。
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