内観コースに小学生を受け入れて Ⅱ

 今までの内観コースの参加者は年齢からみて40代50代の人が圧倒的に多かった。30代の人も何人かはいるが。今年になって短大一年の女性を受け入れたときと高校卒業してすぐの青年を受け入れたときには、何か年齢的な(?)違いというものを強く感じた。話が単純明快で、具体性があって分かりやすい、まっすぐ自分に目を向け自分のことをそのまま見れる、そんな印象を自分は持った。

 これを、数少ない事例だけで年齢的な違いだなどというのは無理な話かもしれない。人それぞれの違いといっておいた方が無難なのだろう。ただこのとき自分の中に「人は本来自分に目を向ける能力(機能)を備えているのではないか」という考えが浮かんだ。

 生まれてすぐのころはどうかわからないが、意識というものが出てくると同時に、人は外にも内(自分)にも目(意識)が向く。本来は外のことも内(自分)のこともそのまま見ようとする機能があるのではないか。それが成長するにしたがって経験を積みいろいろな知識(観念)や言葉を覚え、意識内容も多く(複雑に?)なってくる。それだけならまだよいが、そのうち固定的な観念(知識や言葉)も多くなり、それが自分を見る目を曇らせる。それで自分に目を向けにくくなる。そんな過程があるのではないか。何歳ごろとは特定できないが意外と早い時期に子供の中にも固定的な観念が入るように思う。だから出来るだけ早いうちに、その子に備わっている自分に目を向ける機能に着眼して、それを磨き伸ばす、そんな工夫がいるのではないか。

 こんな考えも頭にあり、また内観法を体験した小学生の話もいくつか耳にしており、内観法の三つのテーマ(①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたこと)の意味が分かる子なら誰でも内観する(自分に目を向ける・客観視する)ことができるのではないかという思いがあった。

 ところが内観コースが始まって小学生を目の前にしたとき、何か勝手が違うなというのが正直な印象だった。それは短大生や高卒の子を受け入れたときともまったくといっていいほど違う自分の中の感覚であった。
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内観コースに小学生を受け入れて Ⅰ

 今回の内観コースには小学5年生の男の子を受け入れた。この子は去年の夏に奈良の方の内観研修所で内観体験をしていることもあり、研修所での暮らしにも最初から抵抗なく入っていけたようだ。その上、母親など身近な人に対する自分を①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことという三つのテーマで思い出していく(調べていく)という内観の仕方にもスッと乗っていけたように思う。

 「自分を知るための内観コース」は文字通り自分を知るためのものだ。自分を知るためにも先ずは自分に目を向けて自分を客観視できるようにならなければならない。内観コースでは具体的なテーマで自分を調べるのだが、そのことを通して自ずと自分を客観視する目が養われていく。

 内観体験をしたあとに、わが子にもこういう体験をさせてみたいと言う人が多い。それは、わが子のことを思うとき、わが子にも出来るだけはやく自分を客観視する目を養う機会を用意してあげたいという切実な願いからでているように思う。子育てや仕事に忙しく追われる日常の中では自分に目を向けにくくなる、そんな親自身の体験からの自覚もあってのことだと思う。

 今回子供を受け入れるにあたって、自分に目を向けるとか自分を観察するとかいうことが子供においてはどんな感じなのだろう、子供の内観はどんなふうに進んでいくのだろうかという興味を持って臨んだのだが・・・
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