問題を解消するための方法についての覚書 Ⅳ

内観法の三つのテーマは自分を客観的に見て検べるためのテーマといったらいいだろうか。自分を客観的に見るということは、自分を客観の中に置いて見るということだ。自分が自分がと大きくなっていた主観(思い・感情・判断)から抜け出て、客観の中にいる自分を見出す。そこで初めてどういう自分であったかと客観的に見て検べていける。内観法はそのように仕組まれているといえるのではないか。

内観法では<嘘と盗み>というテーマもある。このテーマは自分の心に焦点をあてるテーマといったらいいだろうか。このテーマでも具体的な場面を思い起こして、その時の自分をありのまま見ていくわけだが、嘘とか盗みは悪いことだという主観(決めつけ)が強いとありのままの自分がなかなか見えない。<嘘と盗み>のテーマは、内観法の三つのテーマである程度自分を客観視できるようになってから取組むのがよいようだ。

自分を客観視できるようになれば、その他にも、記憶に残る過去のことで今も自分が何か気にかかっている事や場面を取りあげて、その事はどういうことであったか、その時の自分はどうであったかと具体的に検べていける。今も自分の心に残る人生の途上でのいろいろな悩みや問題は、考え方を整理しただけではなかなかスッキリ片付かないものだ。そういうことも内観して検べることで解消していけるのではないかと思う。

とにかく、問題を解消するための方法の要は、<自分を客観視して検べる>ということだ。それに尽きるような気がする。
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問題を解消するための方法についての覚書 Ⅲ

内観法を体験することで「自分や他人を客観視できるようになる」とはよく言われることだ。そこには内観法(体験)の中でのどういう面(要素)が作用しているのだろうか。その辺を押さえて内観に取組むならば、自分や他人を客観視できる能力をより効果的に養うことができるのではないかと思う。

改めて内観法の身近な人に対する自分を検べるテーマ、すなわち①お世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことという三つのテーマに着目してみると、どれも自分の方を見て検べるテーマだが、あくまで実際にあった具体的なこと(場面)を思いおこしながら検べていくことが求められる。自分(のこと)だけを見るというより実際のこと(場面・客観)の中での自分を見ようする。そこに徹して集中することで、自分をも客観視しようとする方向に向かう。何かそのように仕組まれているといえるのではないか。

さらに、この三つのテーマで身近な人に対する自分を次々と見て検べていくことで、それぞれの人との関係ということにとどまらないで、自分自身の生い立ちや自分という存在の成り立ちが知れてくる。自分ひとりで育ったわけではない。自分ひとりで今存在しているわけではない。周囲の人たちや物があってこそ今の自分があるという認識に立つ。それはとりもなおさず、自分を客観の中に置いて見るということではないか。自分が自分がと大きくなっていた主観(思い・感情・判断)から抜け出て、客観の中にいる自分を見出す。

そうなると自分の主観(強い思いや感情)をも、自分から放して客観的に見れるようになってくる。強い思いや感情も何か薄らいでいくのを感じる。自ずと今まで心に抱いていたわだかまりも溶けていく。そういう方向が出てくる。そこで初めてそれがどういうことであったのかと検べていける。それが、内観コースの参加者が身を持って体験するプロセスといってもいいのではないだろうか。
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問題を解消するための方法についての覚書 Ⅱ

自分のことを書いて表現してみるということが、自分を客観的に見るキッカケになることもある。

実際にあったことや、そのとき自分はどんな気持で何を考えていたかということをできるだけ思い出しながら具体的に書いてみる。頭の中だけで思ったり振り返ったりするだけだと、今の思いや感情に左右されやすいが、振り返りながら書く、書きながら振り返ることで、冷静に見れる(客観的に見れる)ということもあるようだ。

書くことで、そのことが自分(の思いや感情)から離れる、そんな作用もあるのだろう。

自分のことを書く(表現する)ことは、自分を対象化(客観化)することだとも言える。

また書いて表現しようとすることで、自分の中にある記憶が引き出されてくるという面もあるようだ。

もちろん書かれたことがすべてではないわけだが、書くことにまつわる作用が、自分を客観的に見ることを促すことになるのではないか。内観コースでは自分史を書いてもらうことがある。誰かが読むために書くのではなく、一時的にも冷静に客観的に自分を見れるようになるということに主眼が置かれる。

冷静になってより客観的に見てみると、自分が今まで自分の思いや感情を差し挟んで見ていたことが何か違うなと本人も気付く。そう気付くことで本人の中で、さらに冷静に客観的に見てみようという意識も働くのではないだろうか。
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問題を解消するための方法についての覚書 Ⅰ

自分が心に抱えている問題を、たとえば、他の人の言動にひっかかり、それで相手に対する反発(対立感情)を抱き、それがわだかまりとして心に強く残っていることなどを、早く解消して本当に楽になりたいと思うならば、そのことから逃れようとするのではなく、そのことに向き合ってよくよく検べること。

そのことに向き合うという場合の、そのこととは、相手の言動ではなく、相手の言動に自分がひっかかったということ、つまりそのときの場面といったらいいだろうか。相手がいて自分がいて、相手の言動があり、それを聞く自分がいる、そういう場面と向き合う。そこにいる自分とも向き合う。

そういう場面とそこにいる自分と向き合うということは、そういう場面とそこにいる自分を客観的に見るということ。客観的に見るということは、感情を混じえないで、主観(善悪良否の判断)を混じえないでありのまま見るということ。自分(の感情や主観)から放してありのまま見ることともいえるかもしれない。

その場面とそこにいる自分とに向き合えてこそ、自分から放して客観的に見ることができてこそ、それを検べることができる。客観的にといっても、より客観的にという方向のことで、本当に客観的に見れているかどうかということは、いつもあるわけだが、客観的(ありのまま)に見れる度合いに応じて、強い感情も薄らいで検べやすくなる。

検べる前に、まずは、そのこと(の場面と自分)を自分から放してどれだけ客観的(ありのまま)に見れるかどうかということがポイントになる。いや、そこは、そこをクリアーしたらほぼ問題は解消しているといえるほど大事なところだと思うが、心に問題を抱えている人にとっては、そこがなかなか難しい。そこで、何か具体的な方法が必要になってくる。
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