「話し合い」の実現④

自分の感覚であるという自覚があるかどうか・・・、話し合いになるかどうかのポイントだろうが、そこの理解・体得が、どのように深まっていくか、話し合いの実現に大きく関わってくるようだ。

仕事の最中にAさんが、Bさんを見て、Bさんがボーっとしているように見えた。つまり、「何もしていない」と見えた。Aさんの頭の中では、いろいろやることがあって、Bさんにそれをやってもらいたいというのが実際の気持ちなのだが、「ボーっとしているBさん」と見えてしまっているので、何だか言いにくく、声がかけれない。
仮に、こういう状態で声をかけるとすると、強い気持ち(責める?求める?)で出るので、言葉に棘があるような感じになるようだ。
AさんのBさんに対する観方や、「自分だったらこういう時にはこうする」というような観方があって、そのような反応が起るのだろうが、そこが観察・自覚できないと、その見え方から解放されない。
逆に、実際の状態としては、そう見えているわけだから、そこを言葉にして発する方が、より、自分の状態が現れ、見えやすい、観察しやすいのかもしれない。自分の中で「自分が思っていること」として、抑えてしまっているようでは、なかなか自分の実際が観えてこないのかもしれない。

他の例から・・・
事務所の掃除をしたばかりの所に、畑に行って汚れた長靴で入ってくるAさん。それを見て、「エー」とか、「まったく」という観方をするところは「自分の感覚」として捉えようとするBさん。「自分の感覚なんだな・・・」と。
が、それだけなのだろうか?
そういった日常の些事の中にも、こうしていきたいという願いは各自にあるだろう。より良く、より正常にしていくには、ということでは、どうなるのだろう?
何のために自覚しようとしているのか?
自分の感覚として自覚するということは、「普通はこうだ」「こうするものだ」という絶対的な位置にいる自分(自分の意識という感覚すらない状態)から抜け出して、自分の感覚として、「思っている」、「考えている」という、一個人の位置に立ち還り、「私の考え」として、意見を言える状態になって、大いに自分の意見は発言し、また、相手の意見も、一人の感覚・個人として尊重して聴いて、どちらも同じ位置で話し合っていくためなのではないだろうか。
自覚がない状態では、自分が「こうだ」としている結論に持っていくための話し(説得?押し付け?)にしかならないから、「話し合い」は決して実現しない。
自覚があってこそ、自分の意見も、相手の意見も出し合って、そこからどんな展開になるか、その場で共に見出していこうとするような状態になれるのだろう。

自覚することで、頭も心ももっと伸びやかに、軟らかく、素直な状態になって、大いに自分の意見も発言し、大いに周りの意見を聴き、実際はどうなのか、どれがよかろうか、本当はどうんだんだろう・・・と発展・進歩・進展していくような「話し合い」が実現していくのだろう。
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「話し合い」の実現③

「話し合い」の実現というテーマで、色んな実例を検討してみると、「自己が混じると話し合いにならない」ということが浮かび上がってきた。

例えば、料理を作ったAさん。
Bさんが、「この料理、もう一つだね」と言った場合、Aさんはどんな風に聴くことが、話し合いになっていくことになるのだろうか。
自覚ない場合、「えー、これはレシピに書いてある通りに作ったのよ」とるのかもしれない。
もっと「自分」がくっついている場合は、「料理を作った私がダメ」「私がもう一つ」と言われているように受け取る場合もあるだろう。「もう、二度と料理なんか作らないから!」なんて発展してしまう場合もあるかもしれない。
反発する場合は、「あなたなんか味が分からいくせに!」と相手に矛先が向く場合もあるかもしれない。

Bさんは、料理についての感想を述べている。
Aさんは、Bさんの言わんとするところを聴こうとするのが、話し合いにつながる聴き方であろう。
それを、料理そのもののこと聞くところが一つの間違い。
それにプラスして、「自分が作った料理」という捉え方から、「そうか」と聴けないようになってしまうようだ。
料理を作っていない人にとっては、「ふーん」とか、「そうか」という感じなのだろうが、料理を作った人は、自分とくっついている分、過剰に反応するのかもしれない。
これは聴き方というところでも、どのように聴くことなのかというところも解明する必要があるだろうし、料理そのものに対しての、「自分が(作った)」という捉え方自体にも、光を当てる必要があるのかもしれない。

別の例。
A:木曜に来たメールを見て、ずいぶん○○だと思った。
B:木曜日じゃないよ、金曜日だよ。
(Bさんが、仕事でそのメールを送った)

Bさん以外の人にとっては、メールが木曜か金曜日かということよりも、Aさんの「ずいぶん○○だと思った」ということが、Aさんの言わんとするところかな・・・と聴いていたが、Bさんは、「え、木曜じゃないよ。うーん(記憶をたどる)、確かに金曜日だ」と、Aさんが何を言わんとするかを聴くというよりも、メールを出したのが木曜か金曜だったかというところに関心が行ってしまって、それが言いたくなる(訂正したくなる)状態だったようだ。

自分が出した、自分が作った、自分が関わった・・・そういう事になると、相手の人が言わんとするところを聴くところにスッといかず、自分のしたことは○○だ、自分はこういうつもりでした、自分は○○だ、自分は・・・、と、自分・自分のオンパレード状態に陥りがちだ。
どうして、こう「自分」「自分」と入るのだろうか?

「自分」そのものを知らない、「自分」が大きい状態、実際に関心が向かない、向きにくい状態にあるということなのだろうか?

「自分が」という”我”が入り込むと、「話し合い」の実現の妨げになるということは、段々に明確になってきた。
そこを先ずは自覚できること。
そこから、その原因は・・・、取り除くには・・・と進んでいけるのだと思う。
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「話し合い」の実現②

「話し合い」の実現を意識して、色んな研鑚会での実例を検討してみると、話し合いにならない要素のいくつかの点が、より明確になってきた。

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「いや」と、相手を否定する場合は、そこを意識し始めると、話を聴けていない実態が明らかになってくる。
が、「うん」と肯定的に反応している場合でも、その内容をよく見てみないと、否定につながる中身であるのかもしれない。
ある人の例。
A:このお饅頭おいしいね。
B:うん、おいしいね。

何気ない会話なのだが、Bさんは、自分は何に反応したのだろうか?と研鑚会に出していた。それをみんなで検討してみると・・・。
Bさんは、自分が食べてみての感想のつもりで出しているようだが、どうも感想というよりも、饅頭そのものの味がおいしいとなっているようだ。そして、Aさんの「おいしいね」の聞き方も、Aさんの食べてみての感想ではなく、饅頭そのもの味の話になっている。
たまたま、自分の感覚に近い(同じ)と判断しているから、「うん」という反応になっているが、自分の感覚と違うと判断したら、「いや」となるのだろう。

Aさんの感想・感覚・考えを聴くということなら、自分の考えと同じか違うかという判断する前に、Aさんの言うことを聴こうとなるのだろう。
Aさんの発言に対しては、「そうか」「はい」ということになるのだろう。
そして、自分の感覚・考え等は、こうだよ・・・となるのだろう。

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誰かの発言を、「そうなんだ」と、その人の言ってることを、素直に聴いているようだが、その人の発言の中身をそういう事実があるんだ(あったんだ)と、キメつけた状態で聞いている場合も多々あるようだ。
そういう状態だと、他の人の発言で右往左往したり、報道などに踊らされることにつながっていってしまうのだろう。
その人は、その事に対する、その人の見解・感想などを話している。それを自分が聴く訳だから、「そうか」と、その人の言わんとするところを聴こうとすることは出来るわけだが、その事自体は、その人の思うところ・発言とは別のこと。それなのに、その事が分かった、知ったように捉えてしまうところに間違いが生ずるようだ。
やはり、どこまで、自分が聴いた、受け取ったということでしかないわけだが・・・。

A:Bさん、Cさんに○○と言ったの?
B:いや、そんなこと俺は言っていないよ。

「○○と言ったのか?」という問いを素直に聴いて、自分は言ったかどうかと考えて返事しているのとは違う状態のようだ。
Bさんは、Aさんの発言を聞いているだけなのに、「Cさんが、Bさんが○○と言っているんだ」と判断して、そのことについて、「俺はそんなこと言っていない」(それは事実と違う)と反応しているようだ。
Aさんが受け取った、Cさんの発言なのだろうが、Cさんがそうだ(Cさんの実際が分かる)と聞いて判断してしまうところからの混線なのだろう。

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Aさんからのメール「銘柄は何でもいいから発泡酒を買ってきて」
B:発泡酒買って来たよ。
A:ビールを注文したと思うが。
B:あれ、自分が間違えたかな?(メールを確認して)発泡酒というメールだったよ。(あなたが間違っている)

何気ないやり取りだが、どこか噛み合わない。
「ビールを注文したと思う」に対して、「そうか」というところが抜けて、自分が間違えたかな?というところ(どちらが間違えたかという方)に話が展開していっているようだ。

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「話し合い」の実現には、
自分の思うこと、考えることは、すべて、そのもの自体ではなく、自分なりに捉えたものであるという自覚、そこから、相手も、その事自体ではなく、その人の捉えた感覚・考えがあり、それを言葉で表現している、そういう成り立ちを知的に理解して、得心がいくところまでいく必要がありそうだ。
そして、聴く時は、その人の思うところを聴く。そして、その後に自分の考えを・・・というところを体得していくための練習が要るようだ。
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「話し合い」の実現

「話し合い」ということは(二人で話す場合だったら)、「相手が思ったことを話し、それを自分が聴いて、また、自分が思ったことを話し、それを相手が聴いて・・・・」ということが実現することだろう。
「話し合い」を広辞苑で見ても、
① 互いに話す。
② 相談する。
とあるだけだ。
実に簡単、シンプルなことのようだ。
だが、実は、これがなかなか実現しくいのが実態のようだ。

A:「今日は涼しいね」
B:「いや、暑いよ」
A: こう言われると、何かヒヤッと冷たいものが流れるんだよね。

こういう例を、ライフミーティングで、ある人が出していた。
このような日常の何気ない会話の中に、話し合いにならない要素が見出される。人の話が聴けないところからくる、人と人との隔たりの実態が見えてくるようだ。

Bの人は、「自分は思ったことを言っただけだ」という意識なのかもしれない。
がしかし、よくその中身を見てみると、自分の思うことを言う前に、「いや」と相手の言うことを、否定・拒否している状態が見えてくる。
否定する時、相手と自分は別の世界。二つの世界が出来てしまうのだろう。

そこを自覚出来ずに、日常茶飯事、口癖の様に、
「いや」
「そうだけど」
「そうじゃなくて」
「それはそうだけど」等等、
相手の発言を否定、認めない状態になっている場合が、多々あるようだ。

その人は、何かについて、その人の感覚や考え等があって、それを言葉で表現している。
それを自分は自分の受け取り方で聴いている。
そこには、「そうか」「ハイ」としか反応しようのないというのが本来の姿なのだろう。そこを受け止めた上で(聴いた上で)、自分の意見・考えを言うのが、話し合いの姿なのだろう。
そこが理解でき、実践できたら、話し合うということが実現されるのだろう。
が、自分の考え・物差しで、相手の発言を裁く、判断する回路が根強くあって、殆ど自覚もなく、「いや」と即座に反応してしまうのであろう。

こう考えてくると、「いや」とかでもなくて、「うん」とか「そうだ」と肯定的に受け取っている場合でも、自分の考えに合うという中身で、同調、受け入れている場合もあるかもしれない。(これも裁いている、判断しているというのでは同次元なのだろう)
自分の考えを入れないで、相手の言うことを、聴くという状態が、先ずは実現される必要があることが見えてくる。


相手の発言を「訂正したくなる」ということも、ライフミーティングで出ていた。

昨日、一緒にカツ丼を食べに行ったAさんとBさん。
A:「昨日牛丼食べたね」
B:「いや、カツ丼だったでしょ」

Aさんは、何か思って(思い違いかもしれないが)、ともかく、「牛丼を食べた」と思ったことを言っているのだが、Bさんは、自分の記憶を正しいとして、Aさんの発言を否定して、「カツ丼」と訂正しようとする。時には、「何を言っているんだ」と責める気持ちが湧いてくる場合さえある。
Aさんの発言には、「そうか」と受け止め、その上で、自分は「カツ丼だったと思う」となることで、話し合いが実現されていくのだろう。
自分が思ってるという自覚がないと、そのようには出来ないだろう。自分が正しいという状態では、即座に「いや、違う!」と判断を下すのだろう。

話し合うとは、どういうことか。
相手が思うことを言葉で表現するとはどういうことなのか。
自分が、相手の話を聴くとはどういうことなのか。
自分が思ったことを言うとはどういうことなのか。

この辺を、ハッキリと検べて見極め、自分の実態を観察し、間違いを見出し、取り除き、本当の話し合いが実現できるように進んでいきたいものだ。
話し合いの実現のためにも。

そのためにも、まずは、自覚のある人になるところから、となるようだ・・・。
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