内観法について Ⅴ

 内観法では、父母その他身近な人に対する自分を①お世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたこと、という三つのテーマにそって年代順に実際はどうかと具体的に調べていく。抽象的でなくとても具体的なこの三つのテーマというのが内観法の核の部分をなしているように思う。なぜこの三つのテーマなのかということは今の自分の体験からでは捉えきれるものではない。

 現行の内観法の創始者吉本伊信氏の言葉に「内観(療)法は一つの自己探求法であります。この方法は浄土真宗の一派に伝わる「身調べ」という求道法から発展してきたもので、現在では一宗一派に偏った宗教的色彩を取除き、老若男女誰でもができるような形にした精神修養法であり、人格改善法であり、精神療法であります。」とある。

 少し長くなるが吉本氏の言葉をもう一つ引用する。「教養を深めたり、理論をたくわえていくには書物その他に頼ればよいのですが、他ならぬ独自の存在であるこの「自己」については、具体的にはどこにも書いてありません。それは自分で探し求め自分の中から学ばねばならないのです。自分をよく見つめ、自分の姿を歪みなく正確につかむためには、徹底的に自分一人で、生身の自分に向かい合う以外に方法はありません。」

 生身の自分に向かい合う方法(実際の自分を反省する方法)として、長年の自身の内観の体験および内観道場での指導経験から、実際の自分を反省する具体的な過程を整序して編み出されたものが現行の内観法ということらしい。この三つのテーマもそういう中で案出されたものだろう。

 実際の自分に向き合って調べる、調べることに集中するといっても自分のどこに焦点をあてて調べるかということのような気もする。いや、そこを真に具体的に調べれば自ずと焦点が合ってくる、そういうテーマだと言ったほうがいいかもしれない。テーマがそういうふうに設定されている。そんな気もする。

 調べることで何か見えてくる世界がある。これと言ってはっきり表現できるものではないが、何か本質的なものに触れる思いがする。自分の思いを調べるのではなく、母(他の人)に対する実際の自分、自分の実際に向き合って具体的に調べようとすることで、自分の実際の姿自分の実際の心(心底)に迫っていく。その時母(他の人)の実際の姿実際の心(心底)にも触れられる思いがする。心底で繋がっていく。心底で繋がっている実際の世界(心の世界)。こんなふうに本当に言い切れるものかどうか。でも何かそういうものを感じる。

 抽象的でなく具体的なこの三つのテーマの意味とか、それを調べる過程とか、それを調べることで向いていく方向とか、それを調べることで触れる(思いのする)世界とか、そのあたりをさらに探っていきたい。そこにある理を見究めたいものだ。
内観法について | - | -

内観法について Ⅳ

 「内観法について」と言っても、自分の内観法にかかわる極わずかな体験からの今の自分なりの捉え方に過ぎない。

 内観法を実際に身に付ける場として全国?各地に内観道場や内観研修所がいくつかあるようで日本以外にも伝わっているらしい。学問的にも取り上げられ精神医学や心理学・精神療法等の分野で研究対象にされたり、また精神療法や犯罪者の社会復帰のための更生法としても採用されているとのことだ。

 内観法についてのそのような研究・実践の広がりについてほとんど知識のない自分だが、自分の内観法にかかわる体験の中で自分の生き方に触れるものを感じ、そこを踏まえてというより、その自分の生き方に触れる部分そのものを探ってみたいという思いがある。

 今自分の捉えているものが実際の内観法そのものではないという自覚のもとに、自分の生き方に触れる内観法の実際に迫っていくこと、そのことが自分の生き方の見直しになっているように思う。
内観法について | - | -

内観法について Ⅲ

 内観法では自分を観察する時のテーマがあって、そのテーマにそって自分を観察していく。たとえば母に対する自分を調べる(観察する)時、母にお世話になったことというテーマで調べていく。具体的に細かいところまで調べようとする。誰も教えてくれないし、理屈で考えてもはじまらない。自分で調べる。調べることに集中する。内観法でやることといったらただそれだけだと言ってもいいと思う。

 だれでも最初この集中するということがなかなかできない。いろいろな雑念が湧いてきてすぐテーマから逸れてしまう。調べることから外れてしまう。普段からいろいろな研鑚会に参加してテーマについて考えるということをやっていたつもりでも、なかなかそのテーマに集中できない。屏風の中という特殊な環境に入り余計に集中できないということもあるのかもしれないが。でも、このことから自分自身振り返ってみると日常の暮らしの中で、また研鑚会に参加している時でも、如何に自分の意識(気持思い考え等)が散漫に動いているかということが逆に見えてくるようだ。

 テーマに集中していくのにも過程(段階)があるようだ。雑念がしきりに湧いてきてテーマを全く忘れてしまっている状態、テーマを意識しはするが思い考えがすぐそこから逸れてはまた気がついてテーマに戻るみたいな状態、この状態では調べるということには全然なっていない。次にテーマを意識し調べようとするが、思いめぐらすだけで実際はどうかと調べるには至らない状態。そういう過程を通ってやっと焦点が絞れてきて、実際はどうか実際はどうかと調べていける状態になる。

 ここで言う状態とは心の状態と言ってもいいのかもしれない。集中できる心の状態、調べるということに集中できる心の状態。先日内観コースに参加したある人が今回の研修に参加していて、「以前にもまして研鑚会に集中できるようになった。内観コースに参加したことが大きかった」というようなことを話していた。調べることのできる心の状態になる。内観法で屏風とか用意して特殊な環境を用意するのも、調べることに集中しやすい環境を用意するということだが、そういう環境の中で「調べることのできる心の状態を培う」ということこそ内観法の目的だと言っても過言ではないと思う。
内観法について | - | -

内観法について Ⅱ

 内観という言葉からして違和感を持つ人も多いと思う。それに部屋の隅に屏風を置いてその中に入って一日中座っているという話を聞くだけで、何か嫌なイメージを持ったり宗教くさく思ったりする人も多いと思う。また一日中じっとして座っていることが、毎日毎日忙しく動きまわっている人にとってはとても考えられないこと耐えられないことに思えて身を引いてしまう。

 でも内観といったところで、平たく言えば自分の内(心)を観察するということだし、屏風の中に座るのもそれに集中するためのことでそれ以上の意味はない。集中して自分の内を観察するための環境として考えられているだけのこと。ただやはり集中できる環境としては、多くの実績もあるようだし、その方法が踏襲されているにすぎない。

 こんなふうに簡単に言ってしまっていいのかなとも思うが、要はその形態にあるのではなく、実際どれくらい集中して自分の内を観察できるかということにある。この自分の内を観察するということ、それは自分の内を調べるというふうにも言えると思うが、そのことの実質がどういうことなのか、またそこに集中するということがどういう状態なのか、そのあたりのことをもっと見極めたいものだ。

 自分の内を観察する調べるというふうに同じ言葉で表現しても、その観察の仕方や調べ方は人様々だと思う。でも調べる時のポイントはいくつかあるように思う。その中で「人間の思い考えと事実は別」ということの自覚があるかどうかということが第一のポイントのようにも思う。この点は今各地で行われている内観で(日本以外にもひろまっていっているらしいが、)明確に意識されているかどうかは分からない。でも内観する中で人の見方考え方が転換するということはとりもなおさず「人間の思い考えと事実は別」ということ、そのことの現れとも言えるのではないか。

 でも内観で気付けた思えたと言ってそこにとどまってしまうことも多いようで、その時の見方の転換によりある種の開放感を味わうが、今度はまたその見方に固定してしまう。それだから一週間の集中内観のほかに日常内観ということが言われ、調べ続けるということの大切さがしきりに強調されるわけだが、大切云々の話ではなく、やはり調べ続ける生き方の実現を目指したいものだ。調べ続けることは気付き発見の連続なのだと思う。「人間の思い考えと事実は別」ということからみればそれはあたりまえのことだと思う。人間ならではの味わいというか・・・。
内観法について | - | -

内観法について Ⅰ

 内観コースの面接をやらせてもらう中で、自分自身の内観の体験とかさなって思うことがいくつかあった。

 内観法では父や母、その他の身近な人に対する自分を、①お世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたこと、の三点で実際どうだったのかと調べていく。調べる過程では具体的なこと、細かい事実までもはっきり思い出し、その時の自分の態度や行動や気持を観ようとする。そういう中で今まではあたりまえのこととして何とも思わなかったことが、今の自分の心にグッと迫ってくることがある。これはどういうことなのだろうか。

 記憶にはなくても幼少時母親にオムツをかえてもらったこととか、毎日奥さんが欠かさず弁当を作ってくれることとか、毎朝旦那さんがコーヒーを入れてくれることとか、今までそうしてもらって当然みたいに思っていたことが、ああ毎日毎日そうしてくれたんだな、そうしてくれているんだなとあらためて何か心にしみてくるものがある。同じことがらでも調べる中で自分の方の見方捉え方がかわってくる。いや単に自分の見方がかわったというのでもない。ことがらを受けとめる自分の姿勢がかわってきているのではないか。そのことが単なることがらでないものにかわっていく。そうしてくれる心を感じる。何かことの実際(本質、心の世界)に触れる思いがする。実際を調べようとするなかでの体験、何か不思議な感じもする。

 実際はどうかといくら調べても人間の認識としては事実実際に行き着くことはないのだが、人間はまさにその事実実際の世界の中に身も心も置いて生きているわけだから、しばしば人間の中にそういう体験(ことの実際《本質》に触れる思い)が起こることもあるのだろう。

 親にお世話になったこととか、自分の身近にいる人が自分にしてくれたことを、あたりまえとして単なることがらとしてしか受けとめられず、そこにある心を感じられないということは、人間の頭がかぎりなく実際から遠ざかっているということではないだろうか。
内観法について | - | -