解放された状態を探る

解放された状態とは、どういうことなのだろう?

解放された心の状態から、解放された姿が現れるのだろう。
つまり、
心の解放→解放された姿。
という順序で現れてくるものなのだろう。
もちろん、解放された姿に触れて、心が解放されてくる場合もあるだろう。

が、解放された姿を形として捉えて、その形をやろうとすると、誤ってしまのだろう。
形として捉えていること自体が、観念的、固定的な状態で、言わば「縛られた状態」に陥ってしまうのだろう。

例えば、「決めないで、何でも話し合いでやる」というような姿も、心の状態のことを言っているのか、形で捉えて形をやろうとするかで、全然異って来る。
皆で決めたことも、人間が一応取り決めたくらいのもので、人間の感覚で「そうしようか」としてるくらいのもので、そもそもいい加減なものと・・・、そういう心の状態で、「いつでも見直せる、改変できる」というような心の状態だったら、「今はこうしておこうか」、「今はこんな仕組みでいこう」と、どんどん決めていける。
それを形で捉えていると、「解放区だったら、決めない方がいい」みたいな固定的な捉え方で、窮屈になって、とりあえず決めておいたら済むことも、いちいち話し合ったり、どうしたらいいか決めることに時間を浪費したりしている場合もあるかもしれない。

自分の考えも、相手の考えも、皆で決めたことも、みんな人間(自分、自分達)の感覚で、そう思ったり、そうしようとしてるだけのこと。
「こうするのがいい」、「こうするのが当然」、「こうしなければならない」、「決まったことだから」、「そんなこと出来る訳ない」・・・みんな自分の感覚・・・。
その自覚から、自分が解放されていくのだろうし、そこをベースに、何にも縛られない、解放された状態に成り合っていき、解放された人達で、どんどん進歩・発展していける、自由闊達の地を描き、実現させていきたいものだ。
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「社会」について、あれこれ・・・

(人間)社会とは、どういうものかと考えてみると、人間が集り、その人間の価値観や社会観などで作り出される人間の集団の関連・関係のことを言うのだろう。
ということは、社会は人間の脳が作り出したものとも言えるかと思う。
といことは、社会のあり方を変えるのも、結局は一人一人の脳の変化の積み重ねだということも言えるのだろう。

人間社会というと、世界中のような範囲を指す場合もあるかもしれないが、日本社会というと日本という範囲での社会を指すだろうし、会社という社会もあるだろうし、二人の人が作り出す社会もあるだろう。
二人の社会といっても、それは周囲の社会の中に存在する二人の社会ということで、周りの影響ももちろん受けるだろう。
が、周囲の価値観と全く異なる価値観で、少数の人達が社会が営むことも出来得る。

社会は、そこにいる人が何を大事にするか、つまり価値観がどのようになるかによって、変わってくる。
つまり、そこの人達の人間観、社会観、仕事観・・・それらがどのようなものかで、その社会は変わってくる。

お金が大事、仕事の効率が大事、やるべき事があるという仕事観、そういう観方の人が作る会社は、そういう社会になる。
日本の社会は、概ね上記のような価値観の人が多いのだろうから、そういう社会なのだろう。
が、そういう中でも、元の心の状態・・・などに重点を置く人達が作る会社は、今の日本の社会とは全然異なる社会実態、社会気風が現われてくるのだろう。

お金や、法律や、規則や、常識なども、みんな人間が作り出したもの。
実態のないもの。
本来、ないものだから、いつでも変えれるもの、見直せるもの。

人間の観念の正常化は生涯学究制で。
人間の社会の正常なモデルは、アズワン活動の中で。
先ずは、”一つ”の社会のモデルを作ることで、言葉や観念で表現していても分からなかった実態が触れて感じ取れるようになるのだろう。そうなると、言葉で指し示す実態が実在することにより、理解できる人が増えてくるのだろう。
実態が無い言葉は、何を指し示すのかが不明確で、各自の捉え方になってしまうが、指し示す実態があると、各自はその実態から理解できるようになっていくのだろう。
”一つ”の社会モデルが実在することの大きさを思う。

自分がどういう価値観、考え方で、考え行っているのか、自分の実態を知り、本来の人間の姿(人生の正態)を知り、そう成り合いつつ、真の人間向きの社会を作り出す。
規模は小さくても、先ずはモデルを一つ作り出すことから。
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本当に解放された姿を知ること

職場解放区とは何かを考えてみる。
「解放」というと、それぞれのイメージが出てく来る。
今窮屈だ、不自由だと感じるものがあると、そこからの解放を思うだろう。
また、従来の窮屈感や不自由感からの解放を思う場合もあるだろう。
もちろん、それも「解放」の一コマではあるだろうが、そこから解放されて解放感を味わえても、それが本当の解放された状態になっているかどうかは分からない。

歴史的に見ても、横暴な王権などから解放されて、財産等を守る権利を勝ち得ることで私有財産制なども生まれたのかもしれないが、そこから新たなる囲いが生じ、それが今の様々な問題を惹き起こす根元になっているという例もあるだろう。

なかなか休みが取れなかった職場で、人が入りあって休みが取れるようになったということがあったとしても、それは若干の縛りが取れて、少しは解放に向かったのかもしれないが、それで良かったでは、縛りのベースの中での一部が改良されたということに過ぎない。職場解放区の実現には程遠い。

何かに縛られた窮屈感からの反動で、そこからの解放を求める場合は、対立的になったり、反発的になったりする場合もあるのだろう。

本当に解放された姿(真実の姿)を知ろうとしないで、部分的な解放された姿を追っても、それはそれだけのこと。
自分なりの解放感を求めての解放区実現の試みでは、新たなる対立を生み出したり、一時的な部分的な解放の動きに止まるだけだろう。

やはり、本当に解放された姿(真実の姿)を知ることが根本で、そこを見極め、そこに至る具現方式を考案しつつ、実際に即して検討を重ね、そうなるように、そうなるようにと進んでいくという道を踏んでいくことなのだろう。
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職場解放区実現に向けて

職場解放区とはどういう地帯を指すのであろう。

「対立社会のあらゆる誤り、因習的悪循環から、親愛の情と研鑽によって、我々すべての人々を解放する意味」と、『社会革命は如何に成されるか』には書かれてあるが、もう少し考えてみたい。

解放された状態とは、何の束縛も無く、つまり、何も縛られず、押し付けられない自由な状態と言えようか。
何も縛られず、自由な状態で、知性を働かすことの出来る状態ということになるのだろう。
解放された人とは、何も縛られずに、知性を働かせれる人。
解放された職場とは、人を縛ったり、押し付けたりすることが一切無い。つまり、そういう縛り、執われから、一切解放された地帯。

先ずは、自己革命により、自らを一切の束縛から解放するのが出発点になるだろう。
自己革命を経た人達の主体的実践ににより、社会変革に向かう。
しかし、周囲の社会環境は、縛り・執われ(規則・金・常識・責任・義務・権利などなど)で組み立てられたものばかりであるわけだから、そういう中で、そういうものに縛られず、そして、それらの縛りを解放に向けてやっていくには、親愛の情に基づく知性を存分に働かせていく必要がある。

全てのことに対して、「やらなければならない」ということから解放されて、やってもいいし、やめることもできる、やらなくてもいいというベースで考えていけることだろう。
もし、やることにしたとしても、「これをやるには、これはやらなければ・・・」という、「やらなければいけない」という考え方で組み立てていくのではなく、どれだけ、楽に、効率的にやっていけるかに知性をもっと使っていくことではないだろうか。
やると決めて、それを成り立たせていくには・・・というのに知恵を使うのではなく、やるのだったら、如何に縛られること無く、小費・小労・多収・豊産でやれるかということに知性を使っていくことだろう。

忙しい、沢山やることがある、色々声がかかる・・・そういう状態だと、何か充実感があったり、達成感があったりする場合があるが、本来の人間生活から見たら、どうなんだろう?と思う。

急所を押さえることで、余裕がある状態、何時でも変われる、やめれる、つまりは解放された状態で仕事ができる、そういう職場というものをもっと探ってみたい。
職場解放区とは一体どういうものなのかを、実際に即しながら、知的に研究していくことが、今必要なのだろう。
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主体性の回復②

「主体的である」ということを考える機会が再度あった。

自分の感覚を事実として、社会はこんなものとしてあきらめている人は、主体的ではないが、「今の社会はおかしい、悪い」として、「主体的に」活動している人もいる。
こういう場合はどうなんだろう?

「今の社会はこうだ」として、自分の感覚で捉えているという自覚がないという点では、あきらめている人も、社会に対して活動している人でも、同次元だろう。
自分の感覚を事実化して、固定することで、そこに縛られる。主体性を失う。そこは動かさないが、そこからは色々発することができ、そこが主体的に見えても、事実化している部分は動かない。執われている。

主体的というのは、知性が自由に働いている状態ではないか・・・というのが出ていたが、そうなのかもしれない。
広辞苑で、「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」とあったが、自己の純粋な立場において行うというのでは、何物にも縛られない、自由な状態で考え・行っている状態とも言えるのだろう。

「忙しいから・・」とか、「仕事があるから・・」とか、「これはいついつまでにやらなければいけないから・・・」と、状況のせい、周囲のせいのように捉えて、それが事実のようになっている状態では、人間の考え出したこと、自分が考えたことに縛られ、主体性を失い、縛られたような状態になっているということなのだろう。開放区を希っていても、自己革命されぬ人は、知らぬ間に、束縛された社会を作り出していってしまうということなのだろう。


「開放区」ということもどういうことなのか?
どんな場面、状況でも、主体的に考え・生きていける人、つまり、何物にも縛られず知性を働かせられる人が、すなわち開放された人とも言えよう。先ずはそういう人に成り合うということが順序になるのだろう。そういう人が、つまり、開放された人達が、寄り集まり、知恵を寄せて、どんな人も開放されていく方向でいけるように、どうあったらいい、どうしたらいかと具現方式を考案しつつ進んでいくことで開放区が作られていくのだろう。
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