内観 考察メモ②

人間関係として近い存在の人に対する自分を調べるということ。

内観では、先ずは母親から、そして父親へ、そして自分の身近だった人について、その人に対する自分を、三項目で調べていく。

内観してみて、そういう近い人との人間関係から、自分の基本的な人間観、人間関係の基本が形成されていると思った。特に母親、父親、兄からの影響は、すごいものがあることを感じた。
そして、それは今まで、全然省みることなくきた面が多々あったと思う。他の検討機会で浮き彫りになった面は、検べることで転換したり、根拠の無いことが観えたりして、溶けていったりしたものもある。
が、無意識的に自分の中に根を張って、あたかも自分の性格や、そういう性質だと思い込んだりしてきたものもたくさんあることに気付いた。
それが母や父に対する自分を調べることで、なぜ、そうなってきたかと自分を見直せることで、「性格でもないんだな」と外れるものもあり、今後の人間観、人生観に大きく変わっていく出発点になりそうだとも思った。
自分の人間観の根になる部分を、何となくの印象や、根拠の無い思い込みで、それを自分だとしている間違いを、一度明るみに浮かび上がらせて、どうだったのか、と直視し、調べる機会は、大事なのではないかと思う。

また、親から世話されてきたというものは、自分の中で、当然視してきたことが殆どで、このような機会でもないと、なかなか気付きにくいものかもしれない。
母親が、いろいろしてくれたこと、例えば、食事を作ってくれたり、洗濯してくれたり、いろいろ買ったり、用意してくれたり・・・そういうことに対して、その実際のことは、何となくは感じてはいても、殆ど自覚がない。
そして、どちらかというと、してくれなかったこと、不足に思ったこと、不満に思ったことが、自分の印象としては強く、大きく残っていく。
実際を調べてみると、実態としては、圧倒的な事実として、世話になったことだらけの中で育った、育ててもらった自分の姿が見えてくる。して返したことなど、殆どまったくない自分の姿も。そして、そんな実態を知らない自分が迷惑をかけたり、心配させたりして(このへんは、それがどういうことか、ということの検討は、別途要ると思うが)、それでも全然それに気付いていない自分であったり・・・。こういう自分の育ちの実際、実態を知っていく作業というのは、人間として必要な要素ではないかというのは思った。

食事時に流れるテープの中でも、郷土史や日本史や世界史を勉強するのはなぜか?という話があって、社会史は知っていても、自分史を知らないのはどうなのか?という話もあったが、自分の成り立ちを一度、事実に沿って検証しておく、親が子を育てるなど、当たり前としていることも、一度その実態を客観的に知ろうとするとすることは、人格形成にとって大事なことだと思うようになった。(自分には、そこが欠けていたなぁと思う)

今日は、ここまで。
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内観 考察メモ①

自分の過去を振り返ることで・・・

内観研修では、半畳ほどのスペースに籠もり、今までの自分を調べる。
先ずは、母に対して、年代順に、
①お世話になったこと
②して返したこと
③迷惑をかけたこと
の三項目で、調べていく。
母が終わると、その後、僕の場合は、父、兄、元の妻、みゆきの順で、この三項目で、年代順に調べていった。
その後、嘘と盗みということで、年代順に調べてみた。
その後、もう一度、母、元の妻、みゆき、父と調べて、一週間が終わった。
調べる対象などは、一人一人違う。自分に近い人を調べていく。
特に近い、父母や配偶者などは何回も調べていくようだ。

一度目、母について調べてみた時は、なかなか過去のことが思い出せず、眠くなったり、集中力が途絶えたり・・・
それでも、次第次第に集中してきて、結構色んなことを思い出し始める。
先ずは自分の印象・イメージから連想される母の姿が思い出される。口うるさい、がみがみ、時間に超厳しい、超固い・・そんな場面の数々・・・。
が、これは、母の姿の方の想起で、「内観」ではなく、「外観」ということになるらしい。
母の姿ではなく、「母に対する自分」を調べるのだと、食事時に流れるテープでの内観創始者の吉本伊信さんの話で、気付く。
「お世話になったことは?」と焦点が合い始めると、自分のイメージではなく、「実際どうだったんだろう?」と頭が働き始める。
そうなると、「そういえば・・」という感じで、実際に世話になった場面などが次々と思い浮かび始める・・・。
それだけでも、イメージで見ていた母の像が崩れ、母に対する固い気持が溶けてくるのが感じられてくる。

二度目の母に対する内観をしていると、集中力も増してきて、どんどん色んな場面がくっくり浮かんでくる。
一回目は、世話になったことというのでは、ご飯を作ってもらって、弁当も作ってもらって・・・という感じで、概念的な感じだったのが、二度目では、ご飯を作ってくれている場面がありありと見えてくる。(餃子を包んでくれているところとか、弁当の包みとか・・・)
そうなると、毎日毎日・・・こうやってご飯を、弁当を・・・作ってくれてたんだなぁ・・・。そういう中で、野球や勉強をしてたんだなぁ・・・。当時の自分は、全然そんなこと、これっぽっちも感じてなかったなぁ・・・と、観え方が変化してくる。
自分が大きかったのが、段々に小さくなるというか、どういう中に自分がいたのか、そこで自分がどんな意識だったのかが、客観的に観えてくるし、そんな当時の自分の姿を、今の自分から見てみると、情けないような、恥ずかしいような、そんな心持にもなってくる。
そして、自分がして返したことが、ほとんどまったくないという事実にも、驚くというか、愕然と気付いてしまう。そんな自分だったのか・・と。

身近な人や、嘘のことなどを調べていき、段々過去の自分の姿がくっきりと浮かび上がってくると、僕の場合、4日目の夜に、忘れていたというか、記憶の底に沈んでいたようなことが、次々と思い出されてきて、寝れなくなってしまって、夜中も内観を続けていた。
途中で、自分を見ることに対する強い抵抗感も出てくる。いやな思い出というか、忘れてしまいたいようなことが思い出されてくる。そこを見ようとするか、逃げるか・・・。面接者の人は何も言わないわけだし、自分次第。
ここは、やっておかねば・・という強い意志が出てきて、自分を見続ける。見たくない自分の姿を直視することなり、相当な疲労も覚えたが、そういう自分が素直に見れるようになり、非常に楽になる感覚。
ずっと忘れていた、というか、避けてきた、宿題のようなものを、やっと手がけられた感覚があった。そして、自分自身が背伸びしないで、そのままの自分で、楽にやっていけそうな感覚になった。
過去の記憶などで、無意識の中の、暗い世界に沈みこんでいたものが、明るい世界に引っ張り出されたような感じ。
研鑚会で検べようという意欲でも、思い出せないこと、無意識的にしまい込んでいることは出てこない場合がある。こういうことが浮かび上がってくるというのは、一つ面白い体験だった。

過去の自分を、三項目で調べていくと、実際に起こったこととが観えてくる。そのことが観えてくると、自分の印象や捉え方がはずれ、そのことから、観え方が変わり、その人に対する気持、感情も変わっていくという作用があるようだ。
また、その時の自分がどんな姿だったかが客観視できることで、自分の実態が見えてくる、そこから自分が省みられるものが大きい。

今日は、ここまで・・・。
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内観 考察のための枠組みメモ

1週間の内観研修行ってみて、いろいろ思うことがある。
考察していきたいが、今日はまず、そのための枠組みをメモ。

自分の過去を振り返る。
印象・イメージから、実際の自分を調べる。
自分を見ることに対する抵抗。
実際に起こったことと、その時の自分を客観視する。
その意味と、観え方の変化。

人間関係として濃い関係の親兄弟、祖父母、親戚、配偶者などに対する自分を、調べることの意味。
そういう近い人との人間関係から、基本的な人間観、人間関係の基本が形成されているのではないか?

自分を見ることの出来る要素。
環境的要素・・感覚遮断。
話す事の意味
意欲
焦点
期間

面接者の態度、あり方
その人に内在する人間本来あるものに対する信頼
その人に任せる態度。
全て受け入れる態度。評価なし。
その人が調べていける方向性。
調べた結果に重きを置かないで、調べていくこと自体に。

内観研修の方法面についての考察
テープの活用
しゃべらない環境
匿名性
施設面、暮し面
面接、面接者

自分を見る視点の検証は?
観えてきたことの検証は?
調べれる要素はどのようにしたら・・・?
常識的要素で納まらないには?
観えたこと、変化したことを持つのでは・・・

調べれる状態になるということはどういうことか?
自分を知るとはどういうことなのだろうか?
育ちの中にあるものの再考、見直しの大切さ。

生涯学究制の中での位置付け。
過去の自分を調べるという要素。
方法面としての位置付け。
生涯学究制として取り入れるなら、どういう方法で。
実施についての一案。

その他・・・その他・・・
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生涯学究制の充実に向けて実験・研究

2月2日の「生涯学究制 構想メモ」の中でも触れたが、生涯学究制の中で、学究の前手というか、検討できる状態になるための基礎的な場を研究し、実施していけるようにもっていきたいと思っている。

以前、よくあったことだが、長期の検討機会で、自分を見つめる中で、育ちの過程などで傷ついた心の部分が浮き彫りになる人が出て、その人がそこを出さずにはいられず、そのことを吐露するような場面がある。1時間とか、長い時は、3時間くらいにもなったりすることもあった。
その人にとっては、出せたことの開放感はあるのだろうが、それだけで心の傷か癒され、整理され、検べれる状態になるわけでもないのだろう。一方、他の参加者は、その間じっと聴くことで、共感したり、一緒に考えたりすることもできるのだろうが、自分のことは検べられる機会ではなくなってしまう。
心の傷になっている部分、冷静に考えれないような部分、病的になっている部分については、別途、専門的に手がけないと、本人も、周囲の人も、中途半端になってしまうのではないか、という問題意識は、ずっとあった。

また、「本当はどうか」と探っていくためにも、その前手に、そういう部分を解決しておかないと、「本当は」と考えていこうとしても、どうしても心がついていかないというか、無理な心の状態になるというのも多々あるようだ。

生涯学究制が、会員申し込みを始め、単発的に合宿コースに参加するというものから、生涯を学究生活で送っていくという制度であるということがはっきり位置づけられる中で、そのような心の傷というような部分を解決していける場が、生涯学究制の中で必要だということが浮き彫りになってきた。

そういう分野を手がけるということもあり、明日から一週間、奈良にある大和内観研修所に行ってくることにした。

一週間、一人で自分に向き合い、自分の過去の歴史を
(1)お世話になったこと
(2)して差し上げたこと
(3)ご迷惑をかけたこと
この3つの観点から調べていくという場らしい。

自分自身も、そこに研修生として、自分の成育歴を純粋に検べてみようと思っている。
そして、自分を実験台にしてみたいと思う。
その上で、先ずは二人の実例を元に、自分の成育歴を検べるということの意味はどういうことなのか、また、そこを検べるテーマとして、この三つの問いはどうなんだろうか、とか、その検べ方についての方法はどういうのが適切なのか、などを研究する材料にしたいと思う。
生涯学究制度の中で、そういう要素が、どのように位置づけられ、どのような機会を設けていくのがいいのかを検討する材料にしていきたいと思う。
内観研修も、生涯学究制度のプログラムの一要素として取り入れられるのか、または、自分達で長太会場を使って、そのような要素を取り入れた新しいプログラムを開発していくのか、また、併用していくのか、それらも、帰ってきてから、色々な角度で検討していきたいと思っている。
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生涯学究制 構想メモ

本来の生涯学究制というものを考えていくというのを始めてみたい。
思いつくまま、メモ。

合宿のコースや、セミナーも、生涯学究制の一つの要素。要素はもっともっと充実・発展していく。
コースに参加するということでもなく、先ずは生涯学究制の趣旨に賛同した人が会員になり(具体的な順序では、コースに参加して、趣旨を知り賛同するというケースが多いかもしれないけれど)、生涯学究制の担当の人と検討しながら、適切な機会に趣き、自分自身を検べ、試して、本当の人生を歩んでいく。

今は、個人が自分が生きたい時に、行きたい機会を選んで行くという形態になっているだろうが、生涯学究制会員が、生涯学究制の方と検討しながら、適切な機会に参加していく。

その人が本来の人生を歩めるようにということなのだろうが、そのためにも、持ち味を検べ試し、適正な場に就いていくのだろうが、それをその人の意思ややる気だけに任せておかないで、社会の制度として、適切なプログラムや場を用意し、持ち味を検べられる機会や場を設けていくような機関として生涯学究制度があるのだろう。

場としては、専科も試みていきたい分野。適性試験科を経て、自分の目的をはっきり知った人が、専門の場に就いていく機会、これもこれからの大きな課題。そういう域に達してきた人もいるようなので、認定を経た人で試験的に開催、ということもできそうだ。

また、学究の前手というか、検討できる状態になるための場ももっと充実する必要があるのかもしれない。心の傷というか、生育歴の中で、何か心理的に重たいものを背負ったような人については、検討できる状態になるために、適切な場で、治療的要素で、そこを治めておくことが要るのだろう。
今の生涯学究の陣容や力量からすると、この辺の治療的分野はまだ未着手、未開拓、手付かずの分野という感じもする。
そういう現状を踏まえ、今、内観療法や、禅や、カウンセリングなど、今の現状でやってくれている場も、生涯学究制の中に位置付けられないかと、検討が始まっているところだ。
生涯学究の担当の人と検討しながら、その人が真の人間になっていくのに適切な場も探りながら、やっていくことになるかもしれない。
心の傷とか、治療的とか聞くと、マイナス的なイメージを持つ人がいるかもしれないが、今の社会の中では、健康な心で育った人は少ないのかもしれない。そういう意味ではどの人も、一度は自分の成育歴など客観的に検べる機会は、どこかで必要なのかもしれない。
こういう分野も、研究と、陣容の充実の中で、生涯学究制の中で、確立、位置付けられていくのだろう。
振出寮も、もう一度、趣旨や位置付けを見直して、方法面も検討して、より充実していくことも必要だろう。

生涯学究制の会員(学生?メンバー)になると、その人達用のブログや、メールやHPなども用意されていくのだろう。
杉江さんのブログにもあったが、今の研究所会員ブログも、研究的な内容と、合宿コースに参加した人達が、自分の生活、暮らしの日記的、記録的なものと交流的な要素として使われていると思う。そこも目的に適った分類をして、研究的なものは研究所ブログとし、生涯学究制のメンバーのブログは日々の記録や交流の場として発展させていくというのがいいのではないかと考えている。

名称も、踏襲とならず、中身を現す内容の表現に・・・。
as one 活動体というのも出されている中で・・・。
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